方広寺の鐘に刻まれた「国家安康/君臣豊楽」の銘文。徳川方は、家康を呪い豊臣の天下を願っていると言いがかりをつけたという(photo かみゆ歴史編集部)

 11月26日放送の大河ドラマどうする家康」は、1611(慶長16)年の徳川家康と豊臣秀頼との会見を手厚く描いた。後水尾天皇の即位にあたり上洛した家康が二条城で秀頼と会見。秀吉の正室だった高台院も同席した饗応の場で家康は、孫娘・千姫の夫でもある秀頼を最高の礼遇で迎え、秀頼は家康を上座にすえて拝礼したとされ、ドラマは、互いに上座を譲り合う2人の駆け引きを丁寧に描いて見せた。

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 考古学者の山岸良二氏監修の『テーマ別だから理解が深まる 日本史』(編集・かみゆ歴史編集部)はこの会見について、「平和裏に終わり、京・大坂の庶民は戦争が避けられたと喜んだ」としているが、ドラマでは、秀頼を下座に座らせた家康に庶民たちが不満の声を上げる、という描写になっていた。

 12月3日放送の「どうする家康」第46回は、いよいよ「大坂の陣」。秀頼が方広寺の鐘に刻んだ「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が徳川を呪詛(じゅそ)しているとして、家康が、秀頼か淀殿を江戸に移すか、豊臣家の国替えをするようにと命じたことから、大坂の陣が幕を開ける。言わずと知れた徳川家と豊臣家の最終戦。主役は徳川家康と豊臣秀頼だが、実際は徳川方にも豊臣方にも別の主役がいた。

 前出の『テーマ別だから理解が深まる 日本史』のほか、同じ「だからわかる」シリーズの人気タイトル『地域別 × 武将だからおもしろい 戦国史』(監修・小和田 哲男/編集・かみゆ歴史編集部)、『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』(監修・伊藤賀一/編集・かみゆ歴史編集部)から、大坂の陣の実際について予習しておきたい。

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 1614(慶長19)年11月、徳川方は約20万の軍勢で大坂城を囲み、大坂冬の陣の火ぶたが切って落とされた。豊臣方は真田信繁、後藤基次ら牢人衆を雇い、籠城の体制を固めた。大坂城の守りは堅固だったが、これをさらに強固なものにしたのが、真田信繁が南方に築いた出城「真田丸」だ。

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講和を実現させた立役者