大坂冬の陣の攻防。大坂城は「惣構」という大規模な堀を持ち、徳川方はこれを突破することができなかった。豊臣方の最前線に「真田丸」(図版作成 ウエイド)

 真田信繁は、信濃の国人真田昌幸の次男。大坂城に出仕し大谷吉継の娘を妻に迎えていたことから、関ヶ原の戦いでは父とともに上田城に籠城。徳川軍の主力を足止めし、戦後、高野山麓に幽閉された。14年後、秀頼の要請を受け大坂城に入城。冬の陣では城外での迎撃を主張したが認められず、東軍の侵攻を阻むために大坂城の南に築いたのが真田丸だった。その真田丸がどんな形状だったのかは、今も議論が続く。

 徳川方は真田丸に阻まれ大きな被害を受けたが、家康は最新鋭の大砲を打ち込んで敵を心理的に追い詰め、講和を成立させる。

「大筒」と呼ばれたこの大砲を家康にもたらしたのは、イギリス人やオランダ人だったとされている。ウエブサイト上に公開されている予告では、「どうする家康」では、1600(慶長5)年3月に豊後に漂着したオランダ商船リーフデ号のイギリス人船員だった三浦按針(ウィリアム=アダムス)が大筒を用意したと描いているようだ。

 三浦按針とオランダ商人ヤン=ヨーステンに出会った家康は二人を信頼し、外交顧問として厚遇した。キリスト教を警戒していたため、聖職者ではない按針らに交易を許した家康は、按針から学問知識や砲術・造船技術などの伝授を受けたとされる。リーフデ号積み荷の大砲や火薬が関ヶ原で使われたという説もあり、三浦按針の出現は家康にとってまさに、渡りに船だったというわけだ。

 翌年、大坂方に再挙兵の動きがあると聞いた家康は、再び討伐の軍を起こす。大坂夏の陣だ。冬の陣の講和の際、徳川方は大坂城の内堀まで埋め立てたため、豊臣方は野戦で対抗したが、後藤基次や木村重成らが次々と戦死する。真田信繁は二度も家康の本陣を脅かし家康に死を覚悟させたが、一歩及ばず自害。豊臣方は城に火を放ち、秀頼と母の淀殿は自刃した。豊臣家は滅亡し、100年以上続いた戦国時代が終結。ここに家康の天下統一事業は完成した。

(構成 生活・文化編集部 上原千穂、塩澤 巧)

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