生殖技術の発展に伴い、子どもが欲しいという人々の願望が、以前にも増して膨張してきている。精子や卵子の提供、代理出産、子どもの男女産み分け、受精卵の遺伝子検査や胎児診断など、次々と新しい技術が開発され、これらの技術を組み合わせれば、あらゆる人が子を持つことができる。生殖サービスの顧客は、不妊カップルだけでなく、独身者や同性愛者にも広がっている。インドやタイなど、安価で法的規制が“緩い”新興国で生殖サービスを利用する動きが加速していくにつれて、様々なトラブルが表面化し、経済振興策として生殖ツーリズムを歓迎していた国も外国人による利用を制限する方向に向かっている。
インドでは2002年に商業的代理出産が合法化されたが、外国人が依頼した代理出産で生まれた子どもの帰国トラブルが相次いだ。日本人依頼者も例外ではなかった。2008年のマンジ事件がよく知られているが、その後も日本人依頼者の帰国トラブルは発生している。海外代理出産が現実的な選択肢となるにつれ、子どもの法的地位の脆弱さが浮かび上がった。海外代理出産の利用者が多い英国や豪では、帰国トラブルを防ぐため、政府機関が渡航者へのガイダンスを提供している。しかし、これは根本的な解決策にはならない。海外代理出産を容認するのであれば、子どもの地位について国境を超えたルールが必要である。
多数の外国人依頼者がトラブルに巻き込まれた結果、インド政府も規制に乗り出さざるを得なくなった。2012年に医療ビザ規制が導入され、多くの外国人依頼者が、渡航先をタイへと変えた。このため、タイに依頼者がどっと押し寄せることになった。筆者はインドとタイに何度か足を運んでいるが、タイの代理出産をめぐる情勢の急変には少なからず驚かされた。タイでは代理出産に関する法的規制がなく、この状況が続けば、近いうちに大きなトラブルが勃発することは容易に予測できた。その一つが、豪依頼者による代理出産子の遺棄事件であった。双子の代理出産子のうち、ダウン症の男児の引きとりを拒否し、女児のみ母国に連れ帰ったと報道された。代理母の妊娠中に胎児の障害がわかり、依頼者が中絶を要請したが代理母が拒否したことも報じられた。「生命」というリスクを赤の他人に押し付ける代理出産では、こうしたトラブルが生じやすい。
また、タイでは産んだ女性が「母親」になる。このため依頼者が引き取りを拒否すれば代理母は子どもと遺伝的つながりがなくとも、「母親」として子どもへの責任を取らされる。代理出産では、妊娠出産した女性が子どもへの愛着を持ち、依頼者への子どもの引き渡しに応じないことが(依頼者から見た)リスクとして認識されがちであった。しかし、実際には依頼者のリスクに比べれば、代理母のほうがはるかに大きなリスクを負っているのである。
因みに、2014年に本邦で公表された自民党の第三者生殖技術に関する法案では、代理出産を限定的に容認し、依頼者ではなく、産んだ女性を「母親」にするとしている。こうしたことは、代理母の負担やリスクを増大させるだけであり、生まれた子どもには第三者の後見人をつけるなどの代替案が妥当である。
タイで生じたもう一つの事件は、資産家の日本人男性が引き起こしたものである。この事件が人々に強い印象を与えたのは、男性が独身であったということ、代理出産で得た子どもが十数人に及んだことである。タイでは代理出産を規制する法はなく、当然、誰が代理出産を依頼できるのか、また、代理出産で何人までの子どもを得てよいのかについて決まりはなかった。不妊の夫婦が最後の手段として依頼するものであると考えていた一般の日本人にとって、代理出産に対するイメージを大きく変える事件となった。また、代理出産で大勢の子どもを得ようとする男性の行為は、先進資本主義国の中産階級にとっては馴染みが深い、夫婦に子どもは2~3人までといった家族に関する常識を覆すものであった。
外国人依頼者の急激な増加と無秩序な代理出産の利用に対する回答として、インドとタイが出した答えは外国人依頼者を締め出すことであった。ポスト・タイの渡航先が探索されているが、インドやタイほど魅力的な渡航先を開発することは簡単ではない。一方、代理出産へのニーズは減少するどころか、増加している。こうした不均衡がもたらす生殖ツーリズムや搾取の構造に対し、利用する側は何らかの回答を示す必要がある。代理出産の広がりは、これまで自明のものとされてきた人類社会の価値観に根本的な問い直しを迫っている。日本でも、国内で生殖補助医療を適正に実施していくために、どのようなルールが必要であるのか、世界の現状を見据えた議論が必要である。