■「トラウマ告白本」をなぜ書かなかったのか

 1990年代後半から2000年代前半にかけて、文化の領域は「ダークなもの」の全盛期でした。

 このころブームになっていたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は、登場人物のほぼ全員がメンタル面に問題を抱えています。幼児期に虐待を受けた主人公が、凄惨な犯罪をくり返すドラマも流行りました。

出版の領域では、『薬ミシュラン』(太田出版)のような、抗精神病薬をポップに解説する本が幾つも出されています。「尖がった文化」にかかわる人間なら、「心の薬」ぐらい飲んでないとカッコ悪い。そのころはそんな空気さえありました。当時、カルト的な人気を誇るミュージシャンたちが、自分の「心の病」や「犯罪的な体験」を得意げに語っていたのはこのためです。

「少年少女だったころのトラウマを告白した自伝」が大挙してベストセラーになったのも、こうした流れの影響でした。16歳で暴力団組長の妻となり、そこから更生して司法試験合格を遂げた大平光代の『だから、あなたも生きぬいて』(講談社)。アトピー性皮膚炎のためイジメに遭い、自分の居場所を探して、バンドの追っかけから右翼になった雨宮処凛の『生き地獄天国』(筑摩書房)。風俗嬢、AV女優を経て人気タレントに登りつめた飯島愛『PLATONIC SEX』(小学館)。これらはいずれも、2000年の出版です。

 こうした「ダークな文化」は、バブル経済の時代に日本人が抱えこんだ「過剰な自己重要感」の断末魔の姿です。

 1980年代末には「中世ヨーロッパの貴族と日本の一般庶民は、1人あたり同じ量の富を消費する」とさえ言われました。外国車に乗り、欧米の高級リゾート地で休日を過ごす。そんな「映画スターでもなければできない生活」を、「普通の人々」も――部分的とはいえ――体験していました。中には、「自分は映画スターのように特別な存在かもしれない」と勘ちがいする「一般庶民」も現われます。

 景気が後退すると、バブル時代のような「贅沢」はできなくなりました。「貴族」や「映画スター」並みに自分は特別である。いったん抱えこんだそうした体感は、やすやすと捨てられるものではありません。そこで、「過剰な自己重要感」を持てあました人々は、「贅沢」を許してくれない世界に怒りをたぎらせます。「どうして私にふさわしい扱いが受けられないの!」。

 その種の「怒れる人々」は、「こんなに間違った『世界』のルールなど、破って構わない」と叫びます。あるいは、「不幸な人間」を代弁者に仕立て、「世界」に対する不満をぶちまけます。「過剰な自己重要感」を背景とする「世界」への呪詛が、世紀末の「ダークな文化」の核でした。

 小泉今日子も実は、「トラウマ告白本」を書けるような育ち方をしています。小学生時代は学校になじめず、<登校拒否の連続。「学校」と聞いただけで、ゲロは吐くわ、熱は出るわ>(注1)。<13歳ぐらいで父の事業が失敗して家庭崩壊が始まり>(注2)、よく知られているとおり、中学時代は「ヤンキー」でした。

 小泉今日子は、1990年代後半から「文章を書く仕事」を始めています。これまで断片的に語って来た「幼少期のトラブル」を、一つの「不幸な物語」として綴ることは難しくなかったはずです。その種の本がもっとも求められていた2000年代前半に、小泉今日子は「36歳の危機」にぶつかっていました。過去をとらえかえすことで、生きかたの更新をはかるのは、むしろ自然ななりゆきです。

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