「今回、絵が発するエネルギーを感じながら即興で演奏しましたが、CDに収録するのは新曲になります。普通はレクイエム(鎮魂曲)を想定するでしょうし、僕はすでに何曲かつくっています。でも、高橋さんが求めているものは違うと思っている。彼が思い描いているのは断末魔です。ニューギニア、ボルネオなどアジア・太平洋の戦跡へ慰霊法要に赴き、死の間際の呻き声、慟哭を聞いたと言います。だから、丸木先生の絵に共感するのでしょう。音楽では、レクイエムは死者に手向ける曲ですが、その前の段階である死へと向かう苦痛の時間、そこから湧いてくる悲しみや不条理を表現する曲作りは、誰も手がけていない分野です。それが最大の障壁でしたが、何とか曲を完成させました」
体調が心配だが、お経は高橋さんに詠んでもらうことしか考えていない。お経は事前に収録することもできる。レコーディングは佐喜眞美術館でやらなければならないと、辻さんは強い意思を語った。
地上戦の残酷さから、丸木位里さんは「沖縄を描くことが一番、戦争を描いたことになる」と語っていたという。館長の佐喜眞さんは、丸木夫妻の「『沖縄戦の図』は沖縄に置きたい」という意向に応え、美術館の建設を決意した経緯があった。
佐喜眞美術館は米軍普天間基地に食い込むように立ち、建物の3方向をフェンスに囲まれている。佐喜眞さんは祖母から引き継いだ約1800平方メートルの土地を米軍から取り戻し、94年に美術館を開館した。だが、土地の返還交渉は容易なことではなかった。那覇防衛施設局(現・沖縄防衛局)に3年以上通い詰めても「佐喜眞さんの返還要請は米軍に伝えてあるが、返還を渋っている」などと同じ言葉をくり返すばかりだった。
「そのうち諦めるだろうと門前払い同然でした。続いて、宜野湾市に協力をお願いしたところ企画部長の比嘉盛光さん(後の宜野湾市長)が普天間基地の司令官と直接交渉してくれたのです。米軍の窓口は不動産管理部長のポール・ギノザさんという沖縄移民でした。私が美術館をつくりたい旨を説明すると、ポールさんは『ミュージアムができたら宜野湾市はよくなるね。問題ないよ』と言うので驚きました。私は3年以上も防衛施設局と交渉したけれど埒(らち)が明かなかったと話したら、ポールさんは『あんなものに話をしても、この問題は解決しませんよ』と言うんです。彼らからすれば、日本政府は『あんなもの』なんですよ」
米軍普天間基地の現状は、基地負担の軽減とは逆行する形で飛来する軍用機の数が増え続けている。「復帰50年」を迎えた22年度、沖縄防衛局の目視調査によると、普天間基地に航空機が離着陸した回数は1万5483回(うち外来機が3126回)に上り、調査を開始した17年度以降、2番目の多さとなった。騒音被害は増加し、航空機の部品落下事故も相次いでいる。04年に宜野湾市の沖縄国際大学の構内に米軍ヘリが墜落したが、同じ事態がいつ起きてもおかしくない状況だ。何と佐喜眞さんは事故が起きることも想定し、美術館を建てていた。
「ヘリが落ちてくるかもしれないから、私は墜落事故が起きても美術館は壊れないような建物にしてほしいと、設計者にお願いしたんです。この美術館は橋をつくるような鉄骨が入っているから、ヘリは壊れても美術館は平然としているそうです」
(ジャーナリスト・亀井洋志)
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