ベヒシュタイン・ジャパン 技術部部長 向井一秀(むかい・かずひで)/1974年生まれ、埼玉県出身。ピアノ調律師養成専門学校卒業後、98年に入社。ドイツの関連会社の駐在を経験。現在、技術部責任者として品質管理やビンテージピアノの修復、後進の育成に努める(撮影/伊ケ崎 忍)
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 全国各地のそれぞれの職場にいる、優れた技能やノウハウを持つ人が登場する連載「職場の神様」。様々な分野で活躍する人たちの神業と仕事の極意を紹介する。AERA 2023年8月7日号にはベヒシュタイン・ジャパン 技術部部長 向井一秀さんが登場した。

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 ピアノのストラディバリウスとも言われるドイツ・ベヒシュタイン社製のピアノ。一音一音が鮮明に響く澄んだ音色は、いつの時代も一流の作曲家や演奏家たちをとりこにしてきた。

 多くの楽器は演奏者自身が調律する。だが、より複雑でデリケートな構造を持つピアノは調律師に任されることがほとんどだ。ベヒシュタインを知り尽くした調律師として、20年以上にわたり演奏を支え続けている。

 ピアノは鍵盤をたたくと鍵盤とつながったハンマーが弦を打つことで音が出る。1台あたりの弦の本数は200本を超え、すべての弦にかかる張力は合わせて20トンに及ぶ。

 これだけの張力に耐えている弦は鉄や銅でできているが、温度や湿度の変化で膨張と収縮を繰り返す。弾かずにそのままにしておいても、弦が伸び、音程の低下やばらつきが生じてしまう。

 そこで、音叉(おんさ)と呼ばれる調律器具が発する基準音をもとに、チューニングハンマーで弦を締めたり緩めたりしながら、すべての弦をミリ単位で調律していく。神経を研ぎ澄まし、自身の耳を頼りに、鍵盤をたたいたり、和音をつくったりしながら音律を整える。

 ピアノの主な材料、木材も湿度の影響を受けて膨張したり収縮したりするため、音律や弦の張り具合を狂わせる。

「特に日本は季節によって湿度の高低差が大きいため、木材を使った楽器にとって負担が大きいんです」

 修理も大切な仕事の一つだ。なかでもピアノの心臓部とも言える共鳴板の修理には最も神経を使う。共鳴板は弦の振動を受けて音の響きを増幅するスピーカーのような役目があるが、経年で割れることも多い。割れた部分には新しい木材をパズルのようにぴったりとはめ込んで欠損を補う。

「板ごと新しいものに替えれば簡単ですが、すっかり替えてしまうと、ピアノが別物になってしまう。一つとして同じ物はないベヒシュタインをなるべく元に近い状態で使ってもらえるようにすることが私たちの使命です」

 かなりの年代物を修復する場合、部品がすでにないこともあるが、そんな時は部品を新たに作り出す。

「そこまで手間と時間をかけてでも残す価値があるピアノだから、やれることはすべてやりたいんです」

(ライター・浴野朝香)

AERA 2023年8月7日号