高校では副主将だった(写真:本人提供)
高校では副主将だった(写真:本人提供)

 工事事務所長は、現場の筆頭責任者。それを、学園前駅の改築で初めて務めた。難工事だった。電車がこない深夜だけでなく、運行する日中に客が乗り降りするなかでの作業も多い。しかも、駅周辺は、近鉄が東京の田園調布をモデルに高級住宅地を開発した地域だ。発注者にとって大事な客がたくさんいることが、想像された。安全の確保が、すべてに優先する。

■乗降客の安全に二つ目の屋根で落下物を防ぐ

 ホームの屋根の下でやる作業には、間にもう一つ、仮の屋根をつくった。万が一、工具や資材が落ちても、乗降客に怪我をさせないためだ。気を使ったのは、通路や階段の仮設。不便さが高じたら、工事への理解や協力が得にくい。備えを、二重三重にした。

 大阪大学工学部の土木工学科を出て入社し、土木部門の仕事を続けた。駅舎などの工事には建築部門の作業があり、作業者はそのほうが多く、職種もいろいろだ。でも、最高責任者だから、土木だけでなく、初めて建築も指揮をした。その人たちの気持ちや動きを掌握しようと思えば、「おはよう」とアイコンタクトは、必要だった。

 太平洋戦争の「戦艦大和」、戦後まもなく建造された当時世界一のタンカー「日章丸」、北アルプス山系につくられた黒部ダムの工事を描いた『黒部の太陽』と、小学校高学年から中学校へかけて読んだ本で知った巨大な難工事。そこから「でっかいものを造ってみたい」と思って入った道は、学園前駅で、技術者からマネジメントの役へ変わっていた。

 1953年11月、大阪市阿倍野区で生まれる。父母と弟の4人家族。大阪学芸大学附属平野小学校(現・大阪教育大学附属平野小学校)から同中学校へ。父が亡くなった後、楽しみはサッカーだった。小学校5年生の64年、大阪であった東京五輪のサッカー順位決定戦で、初めて生の試合をみて好きになる。放課後にボールを蹴り、中学校に入って上級生とサッカー部をつくり、府立住吉高校でも続けた。アイコンタクトが自然な動作になり、『源流』が流れ始める。

■入社して2年 原点になった繰り返しの仕事

 就職は、研究室の先生が推薦した大林組に決める。77年4月に入社し、研修が終わると、兵庫県を走る能勢電気軌道(現・能勢電鉄)の新線の鉄道高架橋工事現場へいかされた。描いていた仕事とは違い、毎日が作業員に対する仕事内容の指示書類づくり、図面から使用する部材の数拾い、職人が何人・何時間働いたかの記録など。「施工管理」と呼ぶ仕事の繰り返しで、工学的な知識を生かすことはほぼなく、ストレスを感じた。

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