政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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IAEA(国際原子力機関)が福島第一原発の「処理水」の海洋放出計画について「国際的な安全基準に整合的である」との報告書を公表しました。これにより、日本政府は放出開始時期の具体的な調整に入りました。海洋放出については、中国をはじめとする近隣諸国が反対を表明していることから「処理水」をめぐる問題が、国と国との対立や確執としてクローズアップされ、いささかヒートアップ気味です。しかし、まず福島における利害当事者、最も被害を受けるはずの漁業関係者との合意がすべてに優先されなければなりません。政府と東電は2015年に福島県漁業協同組合連合会に「関係者の理解なしにいかなる処分も行わない」と約束した経緯があります。まず、何よりもそれを優先させるべきです。
私は福島で何人かの漁業関係者にインタビューをしたことがあります。原発事故からこれまで漁業関係者は涙ぐましいほどの努力を重ねて、福島の漁業と関連産業の復興、そして海の生態系の蘇生に頑張ってこられました。その姿は私の故郷の水俣の地元の人々の姿と重なって心を打ちました。
しかし、そうした最大の不利益を被っている人々を差し置いて、問題を周辺諸国とのナショナリズムの張り合いに「転移」させ、それをフレームアップする対立の構図は避けなければなりません。この点では中国然り、韓国然り、そして日本然りです。
確かに「科学的」な知見と「先入観」との間には断絶があります。それでも、「科学的」なエビデンスや客観性だけでは、社会的な公共性に関わる問題の解決に至らないことは、既に新型コロナウイルスをめぐるマスクの着脱ひとつとっても論争が絶えず、科学的な知見について考えさせられたはずです。
大切なことは、然るべき「適正な手続き」を踏むコミュニケーション的な合意が不可欠ということです。それを欠いたまま、海洋放出に踏み切れば、放出が数十年にわたる以上、ずっと対立の火種となって燻(くすぶ)るはずです。少なくとも、長いスパンにわたる情報公開やモニタリングのシステムがなければ、ずっとしこりが残るはずです。慎重な対応が望まれています。
◎姜尚中(カン・サンジュン)/1950年熊本市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了後、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍
※AERA 2023年7月24日号