東浩紀/批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役
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 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。


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 福島第一原発処理水の海洋放出が迫っている。


 原発事故から12年、跡地では冷却水と地下水が入り混じり毎日膨大な量の汚染水が発生し続けてきた。それを特殊な装置で浄化したのがいわゆる処理水で、微量のトリチウム(三重水素)が含まれる。トリチウムの放出自体は世界中で行われており、政府は健康への危険はないと判断している。そもそも放出は2年以上前の菅政権時に決定されている。


 それがここにきて外交問題になり始めた。中国は反対を表明。11日には香港政府が日本産海産物の禁輸を仄めかした。


 韓国政府は理解を示しているが、野党主導による世論の反発が激しい。7日に訪韓した国際原子力機関のグロッシ事務局長はデモ隊に囲まれる騒ぎとなった。呼応して日本国内でも反対論が高まっている。政府は地元の理解が必須とするが、福島県漁連が反対を表明するなど先行きが読めない。


 とはいえ、日本には他の選択肢がない。凍土壁構築などの試みは失敗した。汚染水は溜まり続けている。敷地内はタンクで一杯で廃炉作業に支障が出ている。永遠に保存し続けるのは無理だ。だとすればいつかは海に流すほかない。早いか遅いかの違いだ。国際的な安全基準を満たすところまで浄化できたのであれば、よしとするべきではなかろうか。


 むろん地元民には不安が残るだろう。長く復興で努力してきたのに、新たな風評被害が重なるのは許容できないという反発も理解できる。けれども事故処理を進めるとすれば、この痛みは潜り抜けるしかない。幸いなことにこの12年で国内の理解はかなり進み、いまでは福島産農作物や海産物の忌避はほぼ見られなくなった。政府による十分な補償を前提に、なんとか合意を作れないものか。


 中韓はこの問題を政争の具にしている。彼らにとって原発事故は他国の出来事だ。だからいくらでも不安を煽ることができる。しかし日本にとってはそうではない。多少の不安はあっても廃炉は進めねばならないし、福島は復興せねばならない。日本の政治家やマスコミにはせめてその軸だけは見失わないでほしいと願う。


◎東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

AERA 2023年7月24日号