支店では1年上の先輩に助けられた。当時は野村をもじって「ノルマ証券」の異名を取るほど、営業目標達成の圧力が強かったが、山道氏は天性の営業力と人当たりのよさで顧客から好かれた。
チャンスが訪れたのは入社3年目。社内留学生の選抜試験があった。「世界で活躍できる」と率先して手を挙げたが、試験当日の体調はボロボロだったそうだ。
「試験前日に『留学なんてしなくていい』と言う先輩の深酒に付き合わされ、ひどい二日酔いで。でも、なぜか合格しました」
米国東部の名門、ペンシルべニア大学ウォートン校で2年学び、MBA(経営学修士)を取得した。
ウォートン校同期の日本人は15人前後。後に三井住友フィナンシャルグループの社長、会長になる國部毅さんや、社長として新生銀行再建を指揮することになる当麻茂樹さんらもいた。今でもゴルフなどを通じて旧交を温めている。
「新人時代の激務のあとに留学したので、現地では心身ともにのびのびしていました。第二の青春でしたね。
人事部から、社費留学生は出発時に独身なら帰国不可、結婚もダメと言い渡されましたが、僕は構わず日本に戻って現在の妻を米国に連れ出し、帰国時には子どもがいました(笑)。そんな僕が後に人事部長になったわけで、野村は鷹揚(おうよう)というか懐が深い」
山道氏の型破りなキャラクターのルーツを探るべく、幼少期にさかのぼろう。生まれは広島市。広島駅の南東、父親の勤務するマツダ本社にも近い黄金山(おうごんざん)や比治山(ひじやま)周辺が、山道少年の遊び場だった。
「悪ガキでした。いたずらが過ぎて母が小学校の先生に呼び出されることもしばしば。20メートルはあろうかという崖を登ったりして。よく落ちなかったなぁ」
小学5年生のとき、父の転勤で兵庫県宝塚市に転居。高校はカトリック系の広島学院で学んだ。言わずとしれた名門だが、「いずれ広島に戻ることがわかっていたので中学校は広島学院の姉妹校である六甲学院中学校(兵庫県神戸市)に進学しました」。