作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。
* * *
ここ10年くらいでしょうか、「気づき」と「学び」の二語がセットで使用されるようになりました。個人的には、やや抵抗がある言葉です。なぜか微妙な気持ち悪さが残る。
「〇〇だと気づいた」や「〇〇を学んだ」ではなく、なぜ名詞にするのでしょう。まあ、「気づいた」「学んだ」より「気づきがあった」「学びを得た」のほうが、高尚で謙虚な感じはするけれど。
初出はいつ、どこからなのかとインターネットで検索しようとしたら、「気づき 学び」のあとの検索候補に「気持ち悪い」と出てきて笑ってしまいました。どうやら、私と同じように感じている人は少なくないようです。
驚いたことに、「気づきと学び」への違和感を表明した文章は、2008年にはインターネット上に存在しました。「ここ数年よく耳にするようになった」とあり、ということは少なくとも2005年くらいからは使われているはず。え? ここ10年どころか20年近く使われているの?
1年ごとにさかのぼり検索してみると、2000年にはすでに使用されていることが判明。気持ち悪がられている割に息が長い。
驚いたことがもうひとつ。いわゆるスピリチュアル界隈から出たと邪推していたこの言い回し、確認した限りでは、さかのぼるほど教育関連の記事や投稿で使用されている場合が多いのです。なるほど、だから名詞形なのか。「学びを深める」って言いますしね。
次に「学び」と「気づき」の違いを調べると、デジタル大辞泉には「学ぶこと、学問、修業」とありました。ちなみに、「学ぶ」は「教えを受けたり見習ったりして、知識や技芸を身につける」こと。気づきは「それまで見落としていたことや問題点に気づくこと」だそうで、「学び」には意志があり「気づき」はもたらされるものってことだ。
あ、私が抵抗を感じるのは、名詞形で使われるからではなく、「気づきと学びがありました」からの発展(≒変化)がなさそうな使用例が多いからかもしれない。そこに警戒するのは私にとっては当然です。だって、なにごとにおいても説得力があるのは変化ですもの。
言葉を扱う仕事をしているだけに、私は言葉を過信しないようにしています。言うは易く行うは難しだからこそ。
何事も不言実行が尊いとは思いませんが、大事なのは行動ですよね。肝に銘じます。
○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中
※AERA 2023年5月15日号