経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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北アイルランド問題。それは、かつては、英国の一部である北アイルランド地方における住民間対立問題のことだった。英国の一部であり続けたい「統合派」と、英国と決別して南の隣国アイルランド共和国と合体したい「分離派」の対立だ。
今でも、この問題はその本質において払拭されてはいない。関係者たちの辛抱強い交渉の中で、深めの眠りについている。この眠りを揺るがしかねないのが、英国のEU離脱に伴うもう一つの北アイルランド問題だ。
英国という国の正式名称は、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」である。グレートブリテン部分は、ブリテン島を構成するイングランド・ウェールズ・スコットランドを指す。「連合王国」としての英国がEUから離脱するとなれば、北アイルランドも脱EUするのが当然だ。だが、そうなると、北アイルランドとアイルランド共和国との間に明示的な国境が出現する。この国境は、英国がEU加盟国である限り、見えない国境だった。物資は、自由に北アイルランドとアイルランド共和国の間を往来した。
これが保障されることで、旧来の北アイルランド問題は、かなり、その尖鋭性が緩和された。別物であって、別物ではない。「二つのアイルランド」のこの関係が、「統合派」と「独立派」の双方に癒やし効果を発揮した。
英国の脱EU後も、いかにしてこの効果を維持するか。このテーマに、ようやく決着がついた。北アイルランドは、今後ともEUの単一市場内にとどまる。つまり、国境は引き続き見えない国境のままである。その代わり、ブリテン島とアイルランド島との間の海峡上に「経済的国境」を設定して通関管理を行う。しかし、これでは、連合王国内のグレートブリテンと北アイルランドの一体性が薄れる。
そこで、この通関管理も、ブリテン島から北アイルランドに入ったまま、共和国側には向かわない物資については、概ね無しとする。青信号点灯しっ放しという意味で、「グリーン・レーン」の名称がついた。果たしてこれで万事解決か。そうではないだろう。だが、半歩前進ではある。かくして、ヒトの知恵はソロリソロリと道を切り拓く。
浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
※AERA 2023年3月20日号