「残念ですが、もうこれ以上、治療の余地はありません」

 と35歳の医師は末期がんの患者に伝える。

「治療法がないというのは、私にすれば、死ねと言われたも同然なんですよ!」

 と52歳の患者が激昂する。

 効かない抗がん剤を投与し、副作用で命を縮めるより、残された時間を有意義に使った方がいい。なぜそれが患者にはわからないのか、と医師は呆れる。

 まだ使っていない抗がん剤もある。組み合わせも変えられる。真剣に治療する気がないのだ、と患者は憤る。

 たった一人で安アパートに住む患者は、衰えゆく体で新たに治療してくれる医者を求めて病院を回り、大金をはたいて医療保険のきかない免疫細胞療法にまで手を出す。

 あいつのせいでおれは死ぬ――患者は医師を恨む。

 医師はこれまでどおり、日々の生活をこなしてゆく。安定した収入があり、家には妻とかわいい5歳の娘が待つ。ときに製薬会社がお膳立てしてくれる宿泊旅行や豪華なディナーを楽しみ、家族とともに高級料理を嗜む。しかしその一方、仕事は激務でまともに昼食をとることもままならず、夜おそくまで患者への対応に追われて疲弊し切っている。疲れ切った頭に、激昂した患者のことが浮かぶ。

 こっちは誠意を尽くして、事実を伝えてるのに、自分の気に入らないからって、自棄(やけ)になる患者にどう対処すればいいのさ――医師は自らを弁護する。

 医師と患者は互いに交わることのない生活を営みながら、自問し、周囲と対話しながら考え続ける。

 久坂部羊の7作目の長編小説は内省的だ。デビュー作『廃用身』で描かれた「高齢患者への四肢の切断」や『破裂』における心不全を劇的に回復させるペプタイド療法と高齢社会を解決する「プロジェクト天寿」のような、医療と生死をめぐる問題を浮き彫りにする、いい意味で外連味(けれんみ)のある「仕掛け」は、本書にはない。

 では退屈か、というとまったくそういうことはない。実にまっとうな文章には心地よいリズム感があり、巧みに描かれた生活の細部が、登場人物を生身の人間として立ち上がらせる。緊張感のある会話と切実な心理描写が読者の心を波立たせ、ページを捲る手が止まらなくなるのだ。

 患者を論文のための実験台にしようとする医師、検査漬けで診療報酬を稼ぐ病院、エビデンスのないインチキ療法、病院を追い出される末期がん患者たち、医療者を疲弊させる過剰労働、医療現場を苦しめる厚労省の医療費削減方針、扇情的な医療をめぐる報道……。患者と医師の生活を描くなかで、さまざまな問題が淡々と浮き彫りにされてゆく。しかし、最大の問題はこの医者と患者との埋まらないギャップそのものであることにやがて読者は気づくのだ。

 医師が自分を一個の人間として見てくれなかったことが、患者の憎しみの始まりだった。

 そしてその患者を、つい一個の人間として意識してしまったことが医師の苦悩の始まりだった。

 しかし、患者・小仲辰郎の頑なさを溶かしたのは、まさに外科医・森川良生がたくさんいる患者のうちの一人でしかない小仲を一個の人間として忘れなかったためであり、森川もまた小仲の変化によって救われるのだ。

 正義感が強く、権力と不正をまっすぐに憎んだゆえに、性格がひねくれてしまった小仲も、常に医療に誠実であろうとするがゆえに患者を疎ましく思う森川も、実は極めて純真な存在だ。がんは不条理にも、無垢なるものに死を宣告し、厳然として深い問いを突きつける。こういう言い方が許されるのかどうかわからないが、その意味で、がんという病はそもそも「文学的」である。

 本書で示された問題の多くは最後まで解決されないままである。相変わらず医師たちは患者の気持ちなど考えず、患者たちはわからずやのまま。厚労省は現場を苦しめ続けているし、制度の不備と死を恐れる人々の気持ちを巧みに利用する悪徳病院やインチキ療法もなくならない。にもかかわらず、結末を読んだとき、晴れやかな空が目に浮かび、世界が少しだけ良くなった気がしたのはなぜか。

 この世の根源的な問題は、何か劇的な仕掛けによって解決するものではない。だからこそ、誰かと心を通わせながら、答えの出ない問題をずっと考え続けるしかない。読了後、本書の主人公たちの切実な問いが、ゆっくりと評者の胸の奥に落ちてきた。そしてこの先も、答えを出せないままにずっとそこにとどまり続けるだろう。そしてそのことこそが、本書が真に文学的である所以なのだ。