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 私事になるが、数年前に母親と父親を相次いで亡くした。本書を読んでいて、まず頭に浮かんだのはそのときの、ふとした光景である。

 父親も母親も実家での在宅介護の状態が長く続き、最後は病院で息を引き取った。最初は通いで、様子を見ていたのだが、覚悟を決めて実家に単身赴任し、老いた親に付き添った。入院中は毎日病院へ通った。母親は入院すると間もなく亡くなったが、父親の入院生活は一年に及んだ。

 病院へ向かう車の中で、自分はどうすればよいのか、この先どんな結末が待っているのかを反芻していた。そのときの息苦しいような、未知の森に迷い込んだような、なんともいえない気分を今でも思い出す。

 わたしの頭上には、答えのない問いが大きく浮かんでおり、わたしはほとんど途方に暮れる以外の何もすることができなかった。

 もし、あのとき本書に出会えていれば、自分が迷い込んだ森の足下にふとした道しるべがあって、そこから幾本かの道が延びていることに気付いたかもしれない。

 本書の著者である、大蔵暢医師は、聖路加国際病院を経て米国で高齢者医療を学び、現在老人ホームで老年医学の実践を行っている方である。本書には、最先端の医療的な知見がちりばめられているが、それ以上に老人ホームという「現場」で経験した様々な事例をもとに、複雑系そのものである老人医療の問題と真正面から向き合った考察がなされている。

 わたしが、両親の介護の過程でいつも感じていたことは、患者(両親)の身体と、精神に何が起きているのか一番よく分かっているのは自分なのではないかということである。不遜なようだが、病院の若い医師や看護師の見立てと、わたしの見立てはしばしば相反し、その相反の理由は「医学的な見解」によるものではなく、老いに関する哲学的ともいえる考え方の違いからきているように思われた。

 死の直前、何度も「渇き」を口にしていた母親は、食事も水も誤嚥の惧(おそ)れがあると、禁じられていた。わたしは家でリンゴをすりおろし、はちみつを加えたものを持参して、母親の口元に運んだ。ベッドには「飲食禁止」の札があったのだが、わたしはそれを無視した。母親はおいしいといって、気持ちよさそうに一口、水分を味わっていたように見えた。しかし、巡回の看護師に「何をしているんですか」と咎められ、水分の補給を止められた。そのとき、わたしは看護師とすこし口論になった。

 母親はそれから一週間後に息を引き取った。

 父親の入院のときは、胃瘻が問題になった。病院ではもうこれ以上するべきことがないという段階で、在宅に切り替えることにしたのだが、その折に胃瘻を作らなければ介護に支障がでるということになった。父親は胃瘻の手術をし、退院することなく逝ってしまった。

 誤嚥を避けようと思えば、飲食禁止か、経鼻チューブや胃瘻での食糧投下となる。しかし、それは患者の「生活の質」を低下させる。

 医療行為をすればするほど、「寿命」を縮めることもあるのだ

 そのような二律背反的な問題に対して、大蔵暢先生は、「これまでの健康―病気の二元状態のみの若年者に対する医療モデルから、虚弱状態がある高齢者にも対応できる新しい医療モデル(生活を続けながら医療を受ける)への転換」が必要だと説いている。

 これを読んで、わたしはあのときの医療従事者との間にあった齟齬がどこからきていたのかが分かったと思った。老人の医療の診察室においては、病気を治して健康に戻すということだけではない、老人の生活への視点が必要なのだ。本書では、まだまだ、日本の医療の現場で立ち遅れている「医学モデル」から「生活モデル」への転換の必要性が、実際の診察室での体験を通して語られている。

 誤嚥、胃瘻、せん妄、治療の代理決定。わたしが介護中に悩んだこれらの問題も本書のなかで考察され、解決の方向性が示されている。

 終わりの方に、大蔵先生が患者本人や家族と相談する時に付けくわえていることが箇条書きされている。

 それは「死亡のパターンや残された時間を決めたり予測したりすることはできません(神のみぞ知ると説明します)」とはじまる。現場を知り、患者を知り、そして自分が何が分かっていて、何が分かっていないのかを知る、理想的な医師の言葉だと思う。