
旧馬場医院は海岸から約800メートル離れていたが、標高は8メートルしかない。震度6弱だった広野町は、直後に高さ9メートルの津波に襲われ、常磐線の東側は何カ所も水没した。
翌12日午後3時36分、福島第一原発が爆発。新聞記者からの情報で事故を知った小鹿山さんは、家族を連れて妻の実家がある南相馬市を経由して、金沢市へ避難した。そして震災から1週間後の18日に戻った。
「原発事故の直後でしたから、当初は広野町ではなく、西へ直線距離で30キロほど離れた小野町の一次避難所となった町民体育館で町の人たちと寝泊まりして、毎日、避難所から避難所へと往診に通いました。血圧を測ったり、入手できるだけの薬を配布したりしましたが、それ以上の何かができるわけでもない。でも、いないよりはましだろうと。使命感? いやいや、そんな大げさなことは考えてなかったし、実際、今だってどれだけ役に立ってることやら(笑)」
小鹿山さんはこう言って謙遜するが、「命を助けてくれた」と話す人もいる。
広野町に生まれ、いまは仙台市で暮らす男性(42)だ。
「ちょうど2年前、僕は心を病んでしまい、自殺の文字がよぎるほど追い込まれていました。そんな折、広野に帰った夕方、たまたま馬場医院の灯が目に入ったんです。胃がキリキリと痛かったので診察してもらい、次の患者さんがいなかったので問わず語りで状況を話したら、じっと最後まで聞いてくれました。そして、『大変でしたね。話したいことは全部話してくれていいですよ』と。その言葉にどれだけ救われたでしょうか」
大震災から12年。小鹿山さんが残した足跡は大きい。(文・写真/高鍬真之)
※週刊朝日 2023年3月17日号