信者のいる教団を“カルト”と断定することには慎重であるべきだし、女性のほうがカルトを信じやすいという根拠はない。ただ、女性がより搾取対象になりやすい現実がある。なぜなら男尊社会で女性の自己肯定感は悲しいほど低いから。現実社会で努力しても報われる可能性の低い女性であれば、「努力すれば、信じれば、報われる」世界に縋(すが)る思いも強くなるだろう。狭く閉じた世界で味わう霊的な自己肯定感は、競争の激しい男社会からは得られないものだろう。
さらに、いったん入ってしまった組織のなかで、自分を被害者と認識するのは難しい。なぜなら、入信は“自己決定”だからだ。殴られるなどの暴力を振るわれたりして、入会を強いられるわけではない。入り口はあくまでも穏やかに、より良い人生のため、生きる意義を見つけるために、自発的に“被害者”になっていく。持続的に搾取される一方で、人間関係を壊し、人生を壊し、そしてその負の連鎖は次の世代の人生をも侵食していく。
オウム真理教と同様、当時からカルトとして注目されていた旧統一教会(世界平和統一家庭連合)と日本の政治の関係が、今、どんどん露呈している。オウム真理教による凄絶な犠牲を出したにもかかわらず、この国はなぜ、徹底的に宗教被害について向き合わなかったのだろう。
オウム真理教と違い、旧統一教会は、“男女関係”に厳格である。夫婦は霊的に結ばれた対等な関係とされ、男性にも貞節を求める。“ジェンダーフリー”などという“イデオロギー”はサタン的な考えであり、女は女らしく、男は男らしく、互いに欠けた存在として理想の家庭をともにつくることが、世界平和の礎となると考えられている。当然、同性婚など全否定だし、“女が自立してしまう”福祉にも否定的だ。福祉が発展すれば保育所に子どもを預ける母親が増加し、結婚しなくてもよい社会になり、家庭崩壊し、ひいては社会崩壊する……という理屈である。
旧統一教会をジェンダーの視点から研究している学者もいるが、実際この宗教の肝はジェンダー問題なのではないかと思うほど、個の尊厳を求めるフェミニズムとは相性が悪い。とはいえ、「個」を否定し、社会の最小単位は「家庭」であるとし、女性性と男性性の違いを強調するこの教団の教義が、今の日本からすれば、とんでもない “カルト”には思えないのではないだろうか。むしろ、「家庭が壊れる」とムリな理屈で選択的夫婦別姓に強固に反対し、「3歳までは、子どもはお母さんが育てるのがよい」と福祉を放棄するようなことを言ってきた安倍政権の“ジェンダー政策”は、旧統一教会の方向性ととても合っている。