ハリウッドザコシショウ(撮影/写真映像部・加藤夏子)
ハリウッドザコシショウ(撮影/写真映像部・加藤夏子)

――ザコシショウさんといえば福山雅治さん、キンタロー。さんなどの「誇張モノマネ」が人気です。

 レイザーラモンRGといえば「あるある」、永野といえば「ラッセン」のような、名刺代わりになるようなネタがないと芸人って売れることはなかなか難しい。そういう意味では、自分にも武器と呼べるようなネタが生まれてよかったなと思います。僕の名前は知らなくても「あ、誇張の人だよね」ってなりますから。

●方言のせいでまったくウケなかった若手時代「あのころの大阪は異常」

――そもそも、お笑いに興味を抱いたのはいつごろですか。

 小学2年生のころには芸人になりたいと思っていました。ドリフターズ、ひょうきん族、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンなどの代表的なお笑い番組は一通り全て見ていました。最も影響を受けたのは竹中直人さん。「東京イエローページ」という番組には感銘を受けましたね。ただ、僕はすごく内気な子だったので、人前で目立った行動をするとかはとくにしませんでした。

 初めてコンビを組んだのは高校生のとき。相方は同級生でした。当初は、ネタの作り方も全然分からなかったので、4コママンガみたいな絵コンテにして、ショートコントを作っていました。でも、人前でネタを披露したことはありませんでした。相方が、いじめられっ子だったので、不良がいると学校とかでもネタって披露しづらいじゃないですか。絶対に普通には見てくれないですから。僕が描いた絵コンテも不良にビリビリにやぶられたこともありますし。あれはむかつきましたね。僕は陰険なので一生忘れない(笑)。

――1992年に高校を卒業し大阪へ。同級生の相方と一緒にNSC(吉本興業の養成所)に入学します。活動はいかがでしたか?

 NSCに入って初めて人前でネタを披露したとき、同期の間での評判はかなりよかったんです。ただ、お客さんの前では一切ウケなかった。原因は、僕らの方言でした。当時の大阪のお客さんって、関西弁を使わない芸人に異常に冷たかったんです。自分の推しの芸人じゃないと一切笑わないっていう風潮も強かったですし。僕らは静岡出身なので、方言もきつかったし、まったく受け入れてもらえませんでした。あのころの大阪は異常でしたよ。東京や名古屋から名の知れたコンビが来ても、大阪では滑り倒すっていう光景は当時何度も見ていましたからね。

 一時は、大阪のお客さんの好みに寄せたほうがいいのかと悩んだこともありましたが、結局それは僕らにはできなかった。だから、最終的には、お客さんにムカついてきて、「どうせウケないなら嫌な気持ちにさせてやろう」と思ってやっていました(笑)。結局、そういう怒りの着火点が、今の芸風にもつながっているのかもしれません。王道の笑いが僕にはできなかったですから。特殊な芸風にいくしか他に道がなかったんです。

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