そして改めて気がつくのだ。ああ、「達成感」という感情から、“私たち”は排除されてきたのではないかと。女であることで、マイノリティーであることで、そもそも期待されることもなく、軽んじられることに自分たち自身が慣れすぎてしまっている“私たち”。達成したくても遮られ、達成したくても入り口を閉ざされる経験をいくらでもしてきた“私たち”。そしてそんな不平を言おうものなら、「被害者意識が強すぎる」「努力すればいい」と突き放されるリアル社会で、達成感という感情を私たちは諦めてしまっていないだろうか。
韓国にはジェンダー平等を意識したドラマに賞が与えられてきた歴史がある。それは、声の聞かれない者の立場の声を聞くという姿勢を、表現者に考える機会を与えるものであった。また、不正義に手を染める権力を許さないという社会の声を紡ぐ知でもあった。社会を変える男たちの土下座物語やAVで一世を風靡した男の英雄史が激しく称賛されるような日本のドラマ界が見せるジェンダー感覚とは、もう雲泥の差をつけられている。権力を目指す女の浅ましさも、相手を潰すための戦略を練る女の汚さも、「女」という存在を貶めることなく、リアリティーをもって個として描ける「当たり前」を見せる韓国ドラマに追いつける日はくるのだろうか。
ああ、早くまた、ウ・ヨンウに会いたい。