今は婦人科がん手術全国トップ病院のチームをけん引する金尾医師だが、若いころに二つの苦い経験があった。
■父親と同じ産科医になるも、不可避な事故で婦人科医に
医師を目指したのは父親の影響で、産科医として働く父親の背中を見て、同じ道を選んだ。
「医学部生の時に父の手術を見学させてもらって、帝王切開の手術をする父の姿がすごくかっこよかったんです。家ではただの飲んだくれのオヤジだったのに(笑)。産科医というのは、人の誕生、人生の喜びに携われる仕事なのだと教えられました」
希望を胸に産科医になり3年目、執刀した帝王切開の手術中に患者が亡くなる経験をした。原因は羊水が母体血中へ流入する「羊水塞栓」。妊娠2万~3万例に1例発生するようなまれな疾患で、予期せず発症する。
「赤ちゃんは無事生まれましたが、お母さんは亡くなりました。ショックから立ち直れず、フラッシュバックで手が震えたりして、帝王切開ができなくなってしまったのです。今でも、当時の夢を見ることがあります」
産科医を断念し、転向したのは婦人科医。なかでも悪性の腫瘍の専門家を志した。
この翌年、手術の「重み」を痛感するもうひとつの経験をした。父親が解離性大動脈瘤の破裂で突然倒れた。病院に駆けつけると、「息子が来たら手術室に入れてほしい」と父親が看護師に言付けていて、手術に立ち会ったが、残念ながら父親は意識を取り戻すことなく、亡くなった。
「父はおそらく僕に患者の家族としての経験をさせることで、『患者さんには、自分の家族に対するつもりで向き合え』ということを、伝えたかったのだと思います。帝王切開の手術のように、難しいものでなくても、細心の注意を払っていても、一瞬で患者さんの人生を変えてしまうことがあります。だからこそ、手術一件一件に真摯に向き合いたいと、より強く思うようになりました」
■当時まだ認知されていない腹腔鏡手術の追求を選択
母体死亡の経験の後、一時的に研究職に就いたが、「やっぱり臨床がいい。手術の腕を磨きたい」との思いから、当時最先端の婦人科腹腔鏡手術をおこなっていた倉敷成人病センターの門をたたいた。
04年のことで、婦人科の腹腔鏡手術は医師の間でもまだ認知が進んでいなかった。周囲から反対もあったが、それでも「患者さんのためになる安全性と根治性を兼ね備えた手術を習得したい」と革新的な現場に身を投じた。その「修行」は一筋縄ではいかなかった。
「『技術は見て盗め』という時代。繰り返し自主練して技術を習得しました。3年目ごろからようやく独り立ちして、難しい症例ができるようになったのは6~7年目です。朝から晩まで手術で1日8件もざら。二つの手術室を並行して使って、手術が終わると隣の手術室ですぐに次の手術をしていました」
同センターに在籍した10年間で良性・悪性合わせて約3千例を経験し、がん研有明病院に招かれた。42歳だった。