「変えられない現実を嘆いてもしょうがないから、私は障害を理由にしない、と決めています。事故や災害、病気など身に降りかかってくることは自分では選べないけど、どう生きるかは自分で選べますから」
事故以来、休まず走り続けてきた岡崎は、いったん立ち止まりたいと思い、6年間勤めたソニーを退職した。その際、岡崎は同僚に「パラリンピックにも出ます」と宣言している。
大学でアーチェリー部だった母の勧めで、競技を始めたばかりだった。滑車のついた機械式の弓で、障害が重くても矢を放つことはできるが、握力がないため、矢を弓にセットすることも、的に刺さった矢を取ることも自分ではできない。母の上京と練習場が使えるタイミングが合わなければ練習はできず、続けるのは容易ではなかった。
転機は、現在アシスタントを務める堀雄太さんとの出会い。16年ごろから定期的に週2回の練習ができるようになり、18年、国内大会に初出場。初めての国際大会だった19年の世界選手権で、混合種目で銅メダルを取り、東京の切符をつかんだ。
事故の後遺症で体幹の筋力がなく、握力もない岡崎が短期間のうちに的に正確に当てられるようになったのは、自分の体への繊細な感覚を磨いたからだ。
事故の2年半後、ネットで脊髄損傷者のためのジムを見つけ、通い始めた。そこで自分の体の使い方や使える筋肉、使えない筋肉などを学んだ。
「私は体幹が利かないから射型を保つのも難しく、すぐに崩れてしまう。だから、体の感覚を大事にしていて、体の位置に違和感がないか、感覚を研ぎ澄ませています」
現在の自己ベストは623点。19年の世界選手権の予選トップ選手の点数が629点なので、世界のトップを狙える位置だ。
「この世界には可能性が広がっている。だからあきらめず、人生を楽しんでいきたい」
(編集部・深澤友紀)
※AERA 2019年12月30日号-2020年1月6日合併号