歌舞伎の世界を描いた、上下巻700ページを超える大作『国宝』を朗読したオーディオブックが完成した。語り部を務めた歌舞伎役者の尾上菊之助さんに、作者の吉田修一さんが言葉を寄せた。
【写真】上下巻700ページを超える大作『国宝』を手にする尾上菊之助さん
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「朗読は尾上菊之助さんで考えています」と制作の方から話を聞いた時に、「実現したらすごいなあ」って思ったんです。でも正直お忙しいだろうし、無理なんじゃないかという思いもありました。それだけに、ご快諾いただけたことは本当に驚きでした。
菊之助さんが『国宝』という作品を朗読してくださっているというのは、ちょっとした事件だと思うんです。歌舞伎ファンも菊之助さんのこんな長い朗読を聴くのは初めてでしょうし、小説好きの方も驚いたと思います。そういう意味では歴史に残るようなことが行われたんじゃないでしょうか。
これまでにも小説が原作の戯曲を歌舞伎役者さんたちが舞台で演じるということはありましたが、小説の朗読、つまりそのままの生の文章と歌舞伎役者さんの演技が合わさった例は聞いたことがありません。小説と歌舞伎役者の一番良い形というか、化学反応的なものが今回起こった。そういう意味で、制作の方、よくやってくれたなって思っています(笑)。
凄みも不安も見えた
菊之助さんの朗読によって歌舞伎役者の物語『国宝』を聴く、本当に贅沢ですよね。実際に『国宝』の制作は自分の作品が映画化された、そんな感じです。著者としてというより一読者、一観客みたいな気分で完成をずっと心待ちにしていました。聴かせていただいて驚いたのですが、頻繁に出てくる長崎弁、大阪弁といった方言も完璧でしたし、何よりも朗読を聴いているだけで場面場面の絵が浮かび、まるで映画を見ているかのようです。
かつて中村鴈治郎さんの出る芝居を全国各地で、黒衣を作ってもらって近くで見せてもらいました。もちろん黒衣を着ても何もできないので、お弟子さんたちの後をついてちょろちょろしているだけでしたが、舞台と客の境目みたいなところにずっと立たせてもらっていたような気がするんです。本当にギリギリのところ、良い意味でいうと特等席だし、逆にいうと崖っぷちみたいなところに。だからこそ、いろんなものが見えてきたんだと思います。役者さんの凄みも、不安も、客の期待も。いろんなものがぶつかるところに立たせていただいていたという気がします。