![インタビューは15時から22時ごろまでノンストップのことも。縦横無尽に話題が広がった/2017年11月、仕事場で(写真部・小原雄輝)](https://aeradot.ismcdn.jp/mwimgs/a/a/528mw/img_aae9deb43c2ded78f91cec0061bfc6c563059.jpg)
小説、評論、古典の現代語訳、エッセーと幅広く活躍した橋本治さんが亡くなった。享年70。精力的に執筆を続け、「真面目にふざけてきた」という作家がたどり着いた境地とは。
* * *
作家の橋本治さんが1月29日、肺炎のために亡くなった。70歳だった。
最初に注目されたのは東京大学在学中の1968年に描いた、駒場祭のポスターだ。「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のコピーとともに話題をさらった。
イラストレーターとして活動しながら、77年に女子高生・榊原玲奈の一人語りが疾走する『桃尻娘』が小説現代新人賞の佳作に入選。以来、活躍は小説にとどまらず、日本初の本格的な少女漫画評論『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』、『桃尻語訳 枕草子』をはじめとする古典の現代語訳、エッセーと、膨大な仕事を残した。
この数年、「橋本治の小説作法」を一冊にまとめるべく、十数回にわたりインタビューを重ねてきた。あまりに多才で、「どこにも位置づけられない人」だったが、橋本さん自身は「小説を書くために、エッセーや評論を書いて、書き方を学んでいった」と言っていた。
「作家になる強い決意もないままにデビューしてしまい、最初の1冊は勢いで乗りきれたけれど、自分には武器がなかった。『完本チャンバラ時代劇講座』を書いてから、三人称が書けるようになったんです」
橋本さんの評論やエッセーは、テーマそのものへの関心はもちろんだが、つねに「小説に生かせる」という意識があったのだと思う。
「声なき者の声に耳を傾けるのが作家の仕事」と、橋本さんは繰り返し語っていた。
「『桃尻娘』を書いた頃、女子高生に聞くべき意見などないと思われていたけれど、彼女たちにだって言いたいことはあるんじゃないか。当時は、滅茶苦茶な文体でまともなことを書くなんてありえなかったんですよ。だからこそ、女子高生の口調で真っ当な小説を書こうと思った」