「元捕虜本人には和解が難しくても、子や孫なら交流できる場合もある。昭和天皇にできなかった和解をいまの天皇が進められたのは、ご自身が息子世代であることも関係があると思います」
とブラウニングさんはいう。
英国在住の恵子・ホームズさん(70)は英国人の夫を飛行機事故で亡くした後、三重県熊野市に帰郷した際、戦時中に銅山で働かされた元英国兵捕虜の慰霊碑を訪ねた。これがきっかけで、元捕虜や家族らと交流。92年から30回以上、計500人以上を日本に招いた。98年には、訪英した天皇陛下から「英国の人たちをお世話してくださってありがとう」とねぎらわれた。「ご主人を亡くされて、さみしかったでしょうね」と声をかけられ、「捕虜の方々が家族のようにしてくださるんですよ」と答えた。
一方で、岡山大学の中尾知代・准教授(58)は「戦後和解の実態はそう単純ではありません」と語る。
「いまだに日本を許せない元捕虜や家族もいるし、『許す』といった人も、全部を許したわけではないのです」
中尾さんは戦後和解の複雑な様相を研究しており、元捕虜や抑留体験者への聞き取りを重ねている。
98年5月26日。ロンドンの大通り「ザ・マル」には、両陛下やエリザベス英女王を乗せた馬車列のパレードに背を向ける元捕虜らがいた。数百人とも2千人ともいわれた。
中尾さんが話を聞くと、一人の元捕虜からはこう言われた。
「私はビルマ(現ミャンマー)で戦った。日本のやつらが友にしたことはあまりにひどい。捕虜だった友人は戦後、何人も死んだ。ぼくが政府なら英国にいる日本人を全部日本に帰し、財産を没収して捕虜たちに配るよ」
話すことを拒否する元捕虜もいた。中尾さんは「話してくれないのはフェアじゃない。でも話せないほど苦しいのだろう」と思ううち涙があふれた。写真を撮られ、翌日の現地紙で「泣いて許しを請う日本人観光客」と報道された。「それが英国の求める日本人像だったのでしょうね」と振り返る。(朝日新聞編集委員・北野隆一)
※AERA 2019年2月4日号より抜粋