批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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新年早々、某大手企業代表のツイッターへの投稿が話題を呼んだ。代表のアカウントをフォローし、問題の投稿をリツイートしたユーザーのなかから、抽選で100人に100万円を「お年玉」としてプレゼントするというのである。原資1億円は代表個人の提供だという。
投稿は1月5日の夜11時近くになされ、1月7日が締め切りとされた。締め切り直前のリツイート数は550万回を突破し、世界記録となった。2日間のキャンペーンで代表のフォロワー数は50万から600万へと激増し、メディアでも大きく取り上げられた。1億円の広告としては結果的にたいへん効率がよかった、というのが専門家の分析だ。景品表示法上もツイッターの利用規約上も問題はないらしい。
このキャンペーンを正面きって批判するのはむずかしい。同じ1億円の贈与ならほかに使いみちはあるだろうという気はするが、財産をどう使うかは個人の自由である。当選者もみな喜んでいる。だれも悲しんでいないし、損もしていない。
しかしそれでも批判すべきなのは、このキャンペーンが、人間のどうしようもない弱さを利用し強調するものでしかないからである。問題の代表は、芸能人との会食で何百万円ものワインをぽんぽん開けることでも知られている。彼にとってはワイン一本にもならない「はした金」を示しただけで、「もしかしたら」と思って何百万もの人々が波を打って押し寄せる光景を、代表はどのような感情で眺めたのだろうか。また、それを見て人々がどう感じると考えていたのだろうか。
筆者が今回の事件で想起したのは、第1次大戦の特需の時代に和田邦坊(くにぼう)が描いた有名な風刺画である。暗闇で靴を捜す女中に、初老の成り金男性が高額紙幣を燃やして明かりをかざす絵だが、あの絵が人々にざらざらした感情を引き起こすのは、そこで紙幣が無駄に燃やされているからではない。成り金が女中を見下ろし、にやにやと笑っているからだ。
問題は富の格差そのものではない。富の格差が問題になるのは、それが人々相互の敬意を蝕むときである。いまの日本はそうなり始めている。
※AERA 2019年1月21日号