経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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外国人労働者の受け入れ拡大のための出入国管理法改正案が、参議院で審議入りしている。12月10日までの国会会期内の成立を目指す。それが政府・与党のもくろみだ。
この無茶苦茶な性急ぶりには、ひたすら唖然とするばかりだ。ともかくあきれることしかやらない人たちだ。どこまで国会を軽視し、野党をばかにし、議会制民主主義を愚弄すれば気が済むのか。多少なりとも大人らしい振る舞いというものを、どこかで教わる機会はなかったのか。
それはそれとして、この入管法騒動の背景にあるのは、言うまでもなく「人手不足」問題だ。日本は人手が足りない。だから猫の手ならぬ外国人の手も借りるというわけだ。外国人は猫か。そう言いたくなってくる。さらにいえば、「人手」というのは実に妙な言葉だ。昔からある言葉ではある。だがこの際、使用禁止用語にした方がいい。
人は人だ。人手という名の道具ではない。人手をヒトデと書けば、何やら怪しげなイメージが浮かんでくる。ヒトデ不足の海中には、ごくまばらにしかヒトデが泳いでいない。これでは海の中の生態系が調子を崩す。早々に、どこか別の海からヒトデを調達してこなければいけない。関門を開けろ。ヒトデを呼び込め。入ってきたら囲い込め。何なら連れ合いヒトデや子どもヒトデも取り込んでしまえ。
こんな調子でヒトデ狩りをずんずん進める。そのための法律変更だ。とにかく急がなくっちゃ。ヒトデ狩りはどこでも課題になっている。日本が後れをとってはならじ。ヒトデ狩りのグローバル競争に打ち勝つべし。法案の国会通過を急ぐ政府・与党に、狩りに出る者たちのそんなギラギラ感に通じるギラギラ感を感じてしまう。
人をヒトデ視し始めた時、人は人が人であることを忘れる。「我々は労働者を求めた。ところが、やって来たのは人々だった。」戦後スイスを代表する作家の一人、マックス・フリッシュの言葉である。彼がこの思いを語った時、やっぱり、人は人をヒトデ視していたのだろう。やって来てくれた人々に、政府・与党がヒトデ型のワッペンを配ったりはしないだろうか。とても心配になってくる。
※AERA 2018年12月10日号