経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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“deglobalization”。このところ、突如としてこの言葉が飛び交い始めている。さて、これを日本語でどう表現するか。“denuclearization”を「非核化」と訳すことになぞらえれば、「非グローバル化」ということになる。だが、どうも、これではしっくり来ない。
この場合の“de”は、どうも「非」では物足りない。瓦解とか崩壊、解体ないし解散のイメージだ。グローバルであったものがそうではなくなるだけのことならば、グローバル化する前の状況に戻るわけである。“Deglobal”化するとはそういうことなのか。
「グローバル」という言い方が定着する以前において、我々はどういう表現を用いていたか。それは「国際」である。「国際経済」とか、「国際関係」とか、「国際化」という言い方で、国境を越えたヒト・モノ・カネの行き来について語っていた。Deglobal化すると、我々は、またあの「国際」の世界に帰還するのか。そうではないだろう。 なぜなら、deglobalizationの流れをつくりだそうとしている、あるいは無意識的にせよ加担している人々が指向しているのは、国境の内側に閉じこもることだからである。国境の外側によそ者を締め出すことだからだ。そうなれば、「国際」の時代さえ通り越して、時代を逆走することになる。「非グローバル化」でなければ、「不グローバル化」だろうか。これもちょっと違いそうである。
「ヒ」でなくて「フ」でもない。となれば、残るは「ハ」しかない。「破グローバル化」。おお、これはなかなか雰囲気がある。破壊の破。破滅の破。ビリビリ破るの破。国境を越えた人々の関係が破りさられていく。切り刻まれていく。
「破グローバル化」すると、喜ぶのは誰か。それは「国粋主義でいかなきゃ」「やられたらやりかえさなきゃ」「やられる前にやっつけなきゃ」とささやく偽預言者どもだ。彼らに、神の言葉は託されていない。彼らのささやきは悪魔のささやきだ。「破」に打ち勝てるのは何だろう。それはきっと「魂(こん)」だろう。魂のこもったグローバル時代。それを確立しないと、無魂の破壊主義が地球を覆う。
※AERA 2018年11月12日号