経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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今回もまた、落語ネタで行かせて頂きたく思う。前回の本欄で、グローバル時代には、ケンカの仲裁に入ってくれる親分がいないと書いた。そういう親分が存在しない今だからこそ、みんなでよってたかって、平穏と安泰を守っていかなければいけない。そういう風に思うと申し上げた。
親分でも何でもないグローバル市民たちがケンカの仲裁役を果たしていくには、どうすればいいのか。どんな構えでこの課題に臨んでいけばいいのか。それを考えているうちに、またまた、ある落語の演目を思い出した。8月13・20日合併号の本欄では日銀の金融政策との絡みで「寿限無」と「平林」の2題を取り上げた。今回注目したいのは「胴乱の幸助」という演目である。上方落語の大ネタだ。
胴乱とは、小型カバンのことである。クラッチバッグの雰囲気だ。幸助さんというおっちゃんが、いつも胴乱を持ち歩いている。だから胴乱の幸助だ。幸助さんには、大好きな趣味がある。それは、ケンカの仲裁だ。どこかでケンカをやっていると聞けば、そこにすっ飛んで行って割って入る。双方を小料理屋の2階などに連れて行き、一杯呑ませてお説教し、和解に導いていく。このプロセスに幸助さんが投じる金銭が、胴乱の中から出てくるというわけだ。
大好きなケンカが巷に見当たらないと、幸助さんは困ってしまう。そのような場合には、犬のケンカでもいいから割って入る。どこまで行っても、和解大好きな幸助さんだ。もっとも、なぜ和解好きかといえば、それは、結局のところ、人々から尊敬されたり、チヤホヤされたり、頭を下げられたりしたいからである。その意味で、動機はかなり不純だ。だがそれでも、結果的に和平が成立するのであれば、それなりに結構な話だ。
動機が不純ではないグローバル市民たちが、現代の胴乱の幸助と化すなら、もっと結構だ。ただし、グローバルなスケールのケンカは厄介だ。単独で決着に導くのはなかなか厳しい。そこで、それこそみんなでよってたかって、チーム胴乱の幸助をつくってはどうだろう。どこにでも、ケンカの仲裁に出て行く「国境なき胴乱の幸助団」。これでいかが?
※AERA 2018年10月15日号