天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)
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 昨年9月に「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、現在は入院してリハビリ中の天龍源一郎さん。今回は入院先から主治医の許可をもらいながら、“大将”にまつわる思い出を語ってもらいました。

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 俺がWARを立ち上げた頃、「天龍さん」とか「源ちゃん」とか、いろいろな名前で呼ばれるのが面倒くさくて「大将と呼べ!」と周りに言うようになって、それから大将と呼ばれるようになったけど、俺の中での大将といえば、やっぱり俺がいた二所ノ関部屋の大横綱・大鵬さんだ。

 あのころは大鵬さんだけでなく、ほかの部屋の大関や横綱も大将と呼ばれていて、これは相撲界のしきたりというか慣習みたいなものなんだと思う。もともと相撲界は陸軍が仕切っていたから、その影響でトップの人を大将と呼ぶようになったんじゃないかな。仮に海軍が仕切っていたら、今頃俺は元帥と呼ばれていたかもしれないな(笑)。

 ただ、俺にとっての大将は大鵬さんだけど、実は俺が大鵬さんを大将と呼んだことは一度もない。下っ端の若い衆の俺が大鵬さんを大将と呼ぶのは、なれなれしすぎるんだよね。ずっと大鵬関か横綱と呼んでいたよ。

 現在、俺は相撲界とつながりがないからハッキリとは言えないけど、相撲界もだいぶ変わってきて、今、大将と呼ばれる力士はいないんじゃないかな? 

 俺が相撲を辞めるころでもほとんどいなくなって、当時だと北の富士さんが大将という感じだったね。北の富士さんは親分肌だったし、あのころの相撲取りはみんな「横綱たるものなめられてはいけない」「若い衆に対してはこうあるべき」という筋が通っていたというか“横綱”というものを背負っていたように思う。それを輪島関が来て、ぶっ壊してくれたよ(笑)。

 それでも輪島関は、横綱の振る舞いとしてリンカーンコンチネンタルに乗ったり、銀座の店に飲みに行ったり、北の富士さんを見て学んだ部分も多かったと思う。それまでは、大関、横綱もタニマチのケツにくっついてゴチになっているのが多かったからね。

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