現在の湘南鎌倉総合病院。日本初のバチスタ手術を行うなど先進医療に取り組む。最上階にALSの徳田虎雄が入院している(撮影/出版写真部)
現在の湘南鎌倉総合病院。日本初のバチスタ手術を行うなど先進医療に取り組む。最上階にALSの徳田虎雄が入院している(撮影/出版写真部)
1978年撮影。「武見天皇」と呼ばれた元日本医師会会長、武見太郎。「喧嘩太郎」の異名をとった (c)朝日新聞社
1978年撮影。「武見天皇」と呼ばれた元日本医師会会長、武見太郎。「喧嘩太郎」の異名をとった (c)朝日新聞社

 超高齢化社会が到来したいま、地域による医師不足の解決は喫緊の問題だ。徳洲会はわざわざ医療過疎地に病院を建ててきた。どのようにして巨大グループとなったのか。ノンフィクション作家・山岡淳一郎氏がレポートする。

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 地域による医師不足、偏在の解消は、日本医療の永遠のテーマである。

 1970~80年代にかけて徳洲会は、医療過疎地に的を絞り、「年中無休・24時間診療」を掲げて病院を次々に建てた。総帥の徳田虎雄は「患者からはミカン一個ももらわない」「生活に困る患者の医療費自己負担は猶予する」と宣言し、マスコミの寵児となった。

 その徳洲会の前に巨大な壁がそそり立つ。開業医が中心の医師会であった。

 当時、ベッド数20以上の病院の新設は、都道府県に申請し、開設者の資格や施設基準、従業者の定員などが満たされていれば許可が下りた。開設許可を得た医療法人は、病院をつくる自治体に建築確認申請をし、支障がなければ着工。開院へと進んだ。

 しかし、徳洲会の場合、医師会の影響力が強い都道府県は開設許可をなかなか下ろさない。あるいは都道府県が許可をしても、自治体の医師会が「進出阻止」を唱え、立ちふさがった。徳洲会に「患者を奪われる」「生活権を侵害される」というのがその理由だ。

 医師会は医師個人が会員の職能団体である。そのころ、トップには「武見天皇」と呼ばれた日本医師会会長・武見太郎が君臨し、都道府県医師会、郡市区医師会が下を支えていた。

 明治の元勲、大久保利通のひ孫を娶(めと)った武見は、戦後日本の通商国家路線を定めた総理大臣、吉田茂の謦咳(けいがい)に接して政治力を蓄えた。「喧嘩(けんか)太郎」の異名をとり、攻撃的な姿勢で医療行政に医師会の意見を反映させた。

●医師会と徳田が壮絶バトル

「住民の声は消せない」

 自治体の医師会は、武見の威光をバックに徳洲会に対抗する。医師会員は徳田に憎しみをぶつけた。

 京都府宇治市では医師会と徳田が壮絶なバトルを展開している。

 京都府が徳洲会に「申請通りの価格で宇治の土地を買収してよい」と通告したのは78年6月のことだった。宇治医師会は、これに反発し、8月に「徳洲会病院進出絶対反対、健全な地域医療の確立にご協力を!」と地方紙に全面広告を掲載。医師会員の学校医ボイコット、予防接種拒否をちらつかせる。

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