笑福亭鶴光(しょうふくてい・つるこ)/1948年生まれ。落語家。74年から約12年間パーソナリティーを務めた(撮影/岡田晃奈)
笑福亭鶴光(しょうふくてい・つるこ)/1948年生まれ。落語家。74年から約12年間パーソナリティーを務めた(撮影/岡田晃奈)

 人気深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン(ANN)」のリニューアルで、後にニッポン放送の社長も務めたディレクターの亀渕昭信に起用されたうちの一人が、74年からパーソナリティーを務めた笑福亭鶴光(69)だ。「あのねのね」の地方巡業のため、3カ月間限定のピンチヒッターのはずが、独特の関西弁が絶大な人気を呼び、約12年もの間パーソナリティーを続けてANNの代名詞的存在となった。

「それまで関東で関西弁の放送はほとんどなく、最初は『何を言っているか分からん』と抗議の手紙も来た。関西弁を全国に受け入れさせたのは僕かも知らんね。今でも中学や高校に呼ばれて落語をすると、校長先生の目が少年に戻っている。深夜放送は体の中に入り込む、麻薬みたいなもんや」(鶴光)

 なんといっても人気を呼んだのが、落語をベースにしたエロトークだ。中でも「たまが~たまがやっと入ったわ。電球の球が」などと、“夜の話”と思いきや肩すかしなオチで終わる、という「ミッドナイトストーリー」は絶大な人気を呼んだ。ただ、エロトークもそのさじ加減が重要だったと言う。 

「エロトークはわっと盛り上がんねん。下ネタが苦手な女性は、ものすごいものを想像してしまう。僕はそこまでは言うてないんです。あくまでリスナーに想像させるのが大事」(同)

 鶴光の放送は、後にANNのパーソナリティーを務めた福山雅治や岡村隆史も影響を受けたと公言している。後の世代に脈々と受け継がれる、深夜放送と下ネタの源流がここで生まれた、と言っていい。一方で、亀渕ら制作陣から口酸っぱく言われていたことがあったと明かす。

「『地名を絶対間違えるな』、と。例えば、豊島区を『とよしまく』と読めば、一気に『よそ者や』となってしまう。後はレコードかける前に、できるだけリスナーの名前を読む。そのほうが親近感が湧くでしょ」(同)

 80年代に入ると、漫才ブーム全盛期、81年にスタートした「ビートたけしのANN」が絶大な人気を博した。多忙を極めるビートたけしと打ち合わせをしようと、ニッポン放送のスタジオには、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」プロデューサーのテリー伊藤なども姿を見せたという。さらに、スタジオの前には、ネタを見てもらおうと「たけし軍団」の芸人が詰めかけていた。

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