タレントでエッセイストの小島慶子さんが「AERA」で連載する「幸複のススメ!」をお届けします。多くの原稿を抱え、夫と息子たちが住むオーストラリアと、仕事のある日本とを往復する小島さん。日々の暮らしの中から生まれる思いを綴ります。
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食卓で、よく昔の話になります。息子たちが保育園に通っていた頃の話です。毎晩いろんな絵本を読んだよね、と私が懐かしい作品のタイトルをあげると、彼らは「ああ、覚えている」「それよりこんな本があったよね」とそれぞれの記憶を語り始めます。すると、私は忘れているのに夫はよく覚えている絵本や、家族の誰も正確に思い出せないのだけれど「あれは面白かった」という一冊なんかの話になるのです。あんなに毎晩ぴったりと体を寄せて親密に分かち合った時間も、それぞれの記憶ではこんなにも違ってしまうことが、寂しいような愛おしいような不思議な気分です。
ノーベル文学賞受賞が決まったカズオ・イシグロ氏の最新作『忘れられた巨人』も、人の記憶をめぐるファンタジーです。アーサー王亡き後の中世イギリスで、ある老夫婦がわずかな思い出を頼りに遠くに住む息子を訪ねる旅に出ます。記憶の喪失は、夫婦の老いのせいばかりではありません。あたりに住む人は皆、過去の出来事が思い出せなくなっているのです。それは雌竜の吐く霧のせいなのでした。
霧は老夫婦の過去を曖昧にしたのみならず、その地に昔から住んでいるブリトン人と、侵入したサクソン人との戦いの記憶も薄れさせました。かつて殺しあった者同士が穏やかに共存する世界では、アーサー王の武功を語る老騎士はまるで幽霊のような存在です。
個人の人生だけでなく、家族の過去や、国の歴史にも雌竜の吐く霧は漂っています。なかったことにしたものや忘れつつあることはそのまま葬ればいいのか、竜を殺して呼び起こせばいいのか。
イシグロ氏の受賞と、この総選挙のタイミングが重なったのは偶然ですが、皮肉な暗示となっている気もします。
雌竜の霧で世界を上書きしても、竜を殺して過去を甦(よみがえ)らせても、戴く王次第でこの世は変わってしまうでしょう。
そういう分岐点に今、私たちは立っているのです。
※AERA 2017年10月23日号