巨人入団後、俊足のスイッチヒッターとして売り出した栄村は、88年にキャリアハイの67試合に出場したが、おそらくファンの多くは、同年7月6日の中日戦の守備中に起きた吉村禎章との衝突事故が最も印象に残っているはずだ。

 左膝じん帯4本のうち3本が断裂するなど、全治1年の重傷を負った吉村は、その後、奇跡の復活をはたしたものの、「あの大けがさえなければ、巨人の歴史を変える強打者になっていたはず」と今でも惜しまれている。

 一方、栄村は“壊し屋”とファンからバッシングを受け、嫌がらせも受けるなど、「僕が球界で仕事をしている限り、ついて回るでしょう」と苦悩を深めた。

 90年9月8日のヤクルト戦で吉村が優勝を決めるサヨナラ本塁打を放ったときは、「復活してくれて、何よりうれしかった」と救われた気持ちになったそうだが、自身は外野陣の層が厚いチームにあって、89、90年と2年間出番なく終わった。

 そんな栄村を新天地で生まれ変わらせようと手を差し伸べたのが、91年にオリックスの新監督に就任した土井正三だった。「彼のことが気になっていた」という巨人の大先輩による“人情トレード”でオリックス移籍が決まる。

 土井監督から「足の速さを生かしてほしい」と励まされた栄村は「監督をこの手で胴上げしたい」と恩返しを誓ったが、オリックスも巨人同様外野陣が充実しており、出場7試合にとどまると、同年限りでユニホームを脱いだ。

 無償トレードは、戦力外になった選手でも、球団に保有権があれば成立可能だ。

 戦力外通告を受けたあと、ロッテから中日に移籍したのが、95年オフの愛甲猛だ。

 535試合フルイニング出場をはじめ、長くロッテの主力を務めた愛甲だったが、ボビー・バレンタイン監督、広岡達朗GMの二頭体制になった95年は、チーム構想から外れ、46試合出場の打率.181、2本塁打に終わった。

 自著「球界の野良犬」(宝島社)によれば、同年の愛甲は、ストッキングの履き方を注意され、ベテランが率先してバットを振るよう指示する広岡GMへの反発や一定しない起用法などから、モチベーションが下がっていた。

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一滴も飲めない「酒」が理由で2軍落ち?