思想家・武道家の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、哲学的視点からアプローチします。
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ネポティズム(身内重用主義)という語がしばらく前から現代政治の特性を示す術語として用いられるようになった。頻用されるようになったのは森友学園、加計学園事件以来である。
この事件では、官僚たちのうちから、国民からの信託に違背しても、権力者への忠誠心を貫いた者たちが幾人も出た。彼らは論功行賞によってめでたく出世を遂げた。権力者におもねる者が厚遇され、諫言する者が冷遇されるのは世の常であるが、「長いものには巻かれろ」と冷笑して済ませるには、この風儀は今やあまりに広く日本社会に蔓延し過ぎているように思われる。「イエスマンでなければ出世できない」というルールは今や官民あらゆる組織を支配しつつある。このような事態はそれについての国民的合意があると仮定しないと説明が難しい。
私の仮説はこうだ。多くの日本人はイエスマンのうちに日本人の「標準的なありよう」を見ている。それこそ人として本態的な生き方であり、少しも恥ずべきではないと思っている。だから、これだけ蔓延する。それはイエスマンが宗主国の支配下にある属国民の本然の姿だからである。
繰り返し主張してきた通り、日本は主権国家ではない。米国の属国である。国内に日本の司法権の及ばぬ土地があり、首都の上空に米軍の管制空域が広がり、基幹的な政策は日米合同委員会や年次改革要望書でホワイトハウスから事細かに指示されている国である。「そのような国は独立国とは言われない」と不平等条約改正を求めて苦闘してきた明治人なら(例えば伊藤博文であれば)断言するだろう。
先人に倣って国家主権回復のための外交的努力を愚直に続けるのが日本人の本務であると私は思うが、日本人はある時点でそれを放棄した。だから、宗主国の理不尽な要求に対してはきっぱり「否」を告げるだけの胆力を持った政治家は今の日本にはいない。「主人」に逆らえば排除され、阿諛追従すれば出世が約束されているというシステムの中でスマートに生き抜いてきた人たちで現代日本の指導層は形成された。ならばネポティズムが「国民の病」となったことに何の不思議があろうか。
※AERA 2017年9月25日号