現在の天守台。明暦の大火の翌年に前田綱紀が築いた天守台。この上に天守は建てられていない。その後、火災に遭った傷跡が刻まれている。
現在の天守台。明暦の大火の翌年に前田綱紀が築いた天守台。この上に天守は建てられていない。その後、火災に遭った傷跡が刻まれている。

 江戸城はあまりも巨大すぎて一代では完全に完成できず、三代家光の時代まで持ち越されしまった。もっとも、一度完成した天守を壊して作り直すという無駄なことを2度もしているので、工事期間が長くなってもしかたのないことだろう。

 家康時代の天守は俗に“慶長度天守”と呼ばれている。資料がほとんどなく、どんな天守だか判然としない。塗籠の白い天守だったとする説もあるが、日光東照宮が所有する「東照宮縁起絵巻」に描かれた天守が慶長度のものとするならば、下見板張りを張った黒い天守である。この天守を解体して元和八年(1622)に築き直したのが、元和度の天守である。これを崩して寛永十五年(1638)に造り替えられた寛永度天守だ。

 寛永度の天守は手掛けた大工の甲こう良ら家の控えが残るなど資料もある。この天守は残念ながら明暦の大火で失われてしまった。この後、もう一度天守を建てようという計画もあったが、幻に終わってしまった。

天守級の大きさを誇り、
城の象徴とされた櫓

 富士見三重櫓は、慶長十一年(1606)に、加藤清正が天守台を築いたとされている。築城名人として名高い清正が手掛けたとされているだけあって、打込接の豪快な天守台だ。その上に乗る層塔型の三重三階の櫓は、明暦の大火で焼け落ち、万治二年(1659)に再建。大正十二年(1923)の関東大震災で大破したものの、旧材を使用して建て直した。東西南北のいずれの面もが正面になりえるほど美しく、八方正面の櫓という異名も持っているほどである。

 南面の一重目には唐破風付の出窓が、西面は、一重目に切妻破風付の出窓と二重目に唐破風、東面には二重目に唐破風が設えられている。出窓の下部は石落しで、美しさだけでなく防御も考えられており、それぞれに違う意匠を楽しめるよう工夫が凝らされている。

石垣内部の穴蔵。天守に入ってもすぐには上階に上がることができず、一度、穴蔵(地階)に降りてからでないと、行けないようになっていた。
石垣内部の穴蔵。天守に入ってもすぐには上階に上がることができず、一度、穴蔵(地階)に降りてからでないと、行けないようになっていた。

 江戸城に築かれた三つの天守はいずれも30mを超え、元和度、寛永度の天守は60mに近かった。富士見三重櫓は約16mだから、四分の一程度。将軍も四代目ともなると、巨大な天守がなくとも武威を示すことができるようになったのだろう。現存天守でもっとも小さな備中松山城は11 mほどだから、16mでも他の城の天守級の大きさだ。

 明暦の大火以降、天守は何度か再建計画もあったようだが、天守台が築かれたものの、その上に天守が建てられることはなかった。そのためこの富士見櫓が、江戸城の象徴的な建物となった。 ちなみに富士見櫓という名前は、この櫓から将軍が富士山を見たという伝承からつけられたという。富士山だけでなく夏には両国の花火も楽しんだようだ。

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