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 武装集団に銃撃されて生死の境をさまよった後、「すべての子どもに教育を」と訴え、ノーベル平和賞を受賞した。マララ・ユスフザイさんはおそらく、世界で最も有名なティーンエージャーだ。ドキュメンタリー映画の公開を機に、彼女にインタビューした。

 報道陣が集合したロンドンのホテルの部屋は緊張感に包まれていた。待つのは18歳の少女。ノーベル平和賞を昨年、最年少で受賞したマララ・ユスフザイさんだ。

 ドキュメンタリー映画「わたしはマララ」の公開に合わせて、今回、雑誌・新聞メディアでインタビューを許されたのは、世界で7社。アエラは日本から唯一選ばれた。7社共同の取材時間はわずか25分だ。

──ノーベル平和賞受賞後の変化は。

マララさん:人生が一変し、責任を感じています。2014年に、子どもの権利のために闘っている2人、私とインドの児童労働問題に取り組んでいるカイラシュ・サティヤルティさんが同時に受賞したことで、教育の問題が重要であるという認識が世界に広がりました。

「フー・イズ・マララ?」

 若い男が、下校中のスクールバスをいきなり止めて、荷台に座っていた女の子たちに聞いた。誰も一言も発しなかったが、視線が自然とマララさんに向かった。その途端、男が彼女に3発、発砲した。

 2012年10月9日、マララさんが15歳の時だ。重傷で昏睡状態に陥り、英国バーミンガムに搬送され、一命を取りとめた。

──特殊な運命だと思うか。

マララさん:テロリストは、私を黙らせて弱らせようとしました。でも、それは大きな間違いだった。私の声が世界に広がり、大きくなるばかりだったからです。

 マララさんの生まれ故郷、パキスタン北部のスワート渓谷は、古くからの観光地で緑豊かな地方だ。父親のジアウディンさんは、自ら設立した学校で、約1千人の子どもを教育していた。

 しかし、07年、渓谷を武装集団パキスタン・タリバンが支配し始めた。言論の抑圧に反対する人々は襲撃され、広場に死体がさらされ、ジアウディンさんも殺害予告を何度も受けた。弾圧の中、マララさんは「グル・マカイ」というペンネームで、英放送局BBCのウェブサイトにブログを投稿することを承諾し、記者から与えられた携帯電話を使って日々の恐怖を世界に伝え続けた。

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