
アート・ブレイキーと共演したジャズ・ミュージシャンといえば、きりがないほど多くのミュージシャンの名を挙げることができる。
1955年にブレイキーによって結成された“ジャズ・メッセンジャーズ”、このグループに起用されて才能を伸ばし、次々と世に出た若手のミュージシャンも、数え上げるとこれまたキリがない。“ブレイキー・スクール”と言われる所以だ。
歴代共演者や推薦盤のリスト・アップは専門家に任せるとして、キース・ジャレット、チック・コリアをはじめ、ウイントンとブランフォードのマルサリス兄弟、ケビンとロビンのユーバンクス兄弟、テレンス・ブランチャード、ドナルド・ハリソン……と、ビッグ・ネームになって、このあとこの「ジャズ・ギャラリー」に堂々と登場できるほどに頭角をあらわす者の、じつに多くが“アート・スクール”の卒業生であるのには驚かされる。
あるとき、あるコンサートのバック・ステージで、ブレイキーに不意に呼びとめられ、名前を聞かれた。
「ウチヤマです」と答えると、「ファースト・ネームを綴りで」と言う。
「エス・エイチ・アイ-G-E-R-U……」と答えると……、手にしていた金の縁取りのある日本の色紙にサラサラとサインを書いて手渡してくれたのだった。
1961年に日本のジャズ時代の幕開けの発端を担ったブレイキー、サインをちゃんとした色紙に書くのはいかにも親日家らしい心遣いかと、苦笑しながらもありがたく頂戴した。
このときもらった“オートグラフ”とは別に、ボクはもうひとつ別のブレイキーの“サイン”をもっている。「ウチヤマ・シゲルが撮ったアート・ブレイキーの肖像写真を、どこにどのように使ってもかまわないことを、私アート・ブレイキーは許諾する」
多くのジャズメンと接する機会の多いボクだけど、サインをねだったことはほとんどなかった。けれど、こういうサインならもっと多くのミュージシャンに積極的にもらっておけば、いい商売ができたかも知れない、残念!
横浜に滞在していたブレイキーを訪ねて、中華街で一緒に食事をしたことがあった。お客が有名なジャズ・ミュージシャンだと知って、レストランの主人や従業員の何人もがサインを求めてくる。紙ナプキンに一枚づつ丁寧に書いては順々に笑顔で手渡すブレイキーを見て、この人は本当にサインが好きなんだと微笑んでしまった。
1990年8月「ブルーノート東京」でのライヴを撮影したのが最後になった。体調を崩して公演を中途キャンセルして帰国。その2ヶ月後に巨星は墜ちた、71歳。
次の来日公演のために作成されたポスターが、どんなふうに使ってもかまわないボクの写真が使われてすでに完成していた。実現しなかったコンサートの幻のプログラムが、むなしく手許に残った。
アート・ブレイキー:Art Blakey (allmusic.comへリンクします。)
→ジャズドラム奏者/1919年10月11日 - 1990年10月16日