先月末(1月29日)に、京都のラグというライブハウスで、コンサートをすませた。ピアノ・ソロのステージである。やりおえたあとは、脱力感におそわれ、しばらくぼーっとしてしまった。原稿にも、なかなかとりかかれない。おかげで、今月の「ジャズビギナー奮闘記」は、書くのがおくれてしまった。もうしわけありません。

 事前に、あちこちでライブをやると言いまわったせいだろう。当日は、おおぜいお客さんが、きてくれた。チケットは、完売である。

 入場をことわられた人も、けっこういたらしい。それで、あれよあれよという間に、追加公演の日程も、きめられた(2月23日)。ありがたいことである。

 こうなると、なかなかぼーっとしても、いられない。そろそろ、ピアノの練習をと思うのだが、まだはじめられないでいる。こまったことだ。

 だが、練習をすればいいというものでもない。それだけでは、のりこえられない壁が、ステージにはある。

 なにしろ、100人をこえるお客さんたちが、目の前にいるのだ。どうしても、気持ちが高ぶってしまう。まいあがってしまう自分が、なかなかおさえきれない。そのため、練習の時はだせる音が、だせなくなる。ふだんどおりの音楽が、でてこないのだ。

 人の目が、客の耳が、今自分にあつまっている。そのことだけで、腕がちぢこまり、指がふるえてしまう。おかげで、ミスタッチがいつもより多くなる。こういううろたえぶりは、いくら練習をしても、なくせない。人前で演奏をする、その場数をこなすしか、手はないのだと思う。

 あと、ステージでの実演が、体力的にきついことも、なんとかする必要がある。

 人前で、失敗はゆるされない。そう自分に言いきかせすぎるせいだろうか。どうしても、リラックスして、ピアノへむかうことができない。こわばったまま、ひくことになる。これが、やたらにつかれるのだ。

 野球の投手が、ブルペンでなら、100球、150球と、球をなげつづけられる。しかし、実戦のマウンドにたてば、2、30球でへとへとになってしまう。あれと似たような状態を、想いえがいてほしい。

 おまけに、このあいだのステージでは、ちょっとした余興のせいで、大失敗をしてしまった。

 私には、ささやかな野望がある。このままピアノをつづけ、ナイトクラブのおじいちゃんピアニストに、なりおおせる。そして老後は、ホステスさんを相手にした人生相談で、すごしたい。そんな夢をいだいてきた。

 この夢を、そのステージで、ライブハウスはかなえてくれたのである。みなさん、井上さんの夢につきあってもらえませんか。ピアノの井上さんをかこむホステスさんに、なってください。われこそはと思われる女性の方、ステージへあがってきてはもらえないでしょうか。井上さんのまわりにはべって、井上さんをうっとりながめましょう。そう、会場へ声をかけてくれたのである。

 ひょっとしたら、ライブハウス側のしこみも、あったのかもしれない。何人かの女性客が、じっさいにステージへあがってきてくれた。そして、ピアノにむかう私を、かこみだしたのである。それぞれ、ピアノのまわりに、やや色っぽくしなだれかかりながら。

 これで、私はすっかり自分を見うしなった。鍵盤に気持ちがむかえない。動揺したままひきだした「ミスティ」の、コード進行をとちゅうでわすれてしまう。おかげで、サビをとばしたまま、エンディングへなだれこんでしまった。

 時間的には、七回の裏といったあたりであろうか。そろそろ打ちこまれそうなタイミングではあったと思う。そして、七回裏に、予想外のピンチとでくわし、もちこたえることができなかったのだ。

 楽器は、練習が大事であると思う。とりわけ、ピアノは、日頃の練習がかかせない楽器である。しかし、私は自分の失敗で、こう考えをあらためた。ピアノの練習も大切だが、何よりも心をきたえておかねばならない、と。

 まあ、ステージでは、私の失敗も客のかっさいをあびた。女性にかこまれ、うろたえる。その動揺ぶりが、客席へもあざやかにつたわったのである。ライブのつくりとしては、こういうのもありかなと、考えなくもない。

 お客さんのなかには、あとでこう言ってくれる人もいた。井上さん、あそこわざとまちがえたんでしょ。なかなかやることがあざといね、と。

 とんでもない誤解である。しかし、そううけとめてくれるのなら、それもよしとしよう。とはいえ、数人の女性客でまいあがる私に、はたしてナイトクラブの仕事がつとまるのか。将来の人生設計が、ゆらぎだしているところである。