月亭八方という落語家がいる。大阪、関西で活躍している芸人である。東京あたりでは、あまり知られていないかもしれない。しかし、上方の笑芸世界では、ちょっとした重鎮になっている。
といっても、落語がそれほどうまいわけではない。ときおり、高座で見かけはするが、まあ可もなし不可もなしといったところだろう。
八方が光るのは、なんといってもフリー・トークである。話の腰をおる、肩すかしめいた話芸に、なんともいえないあじわいがある。テレビのワイドショーなどで重宝がられているのも、そこを買ってのことだろう。
そんな八方の話ぶりに、しかし、あれどこかで聞いたネタだなと感じることがある。いわゆる古典落語の笑いが、使いまわされている。話の表面は今風だが、諧謔の骨組は、古典のそれから組み立てているんじゃあないか。そう思えるところが、ときおりある。
いちどお目にかかるおりがあったので、そのことをたずねてみた。八方さんの笑いには、古典をアレンジしたものがありますよね、と。
ひょっとしたら、意地の悪い質問だったのかもしれない。芸の楽屋裏をうかがう、一種ののぞき趣味もこめられていたかと、われながらそう思う。
しかし、八方師匠は、こちらをとがめもせずに、こたえてくれた。自分が、自在にこなせる古典は、七つしかない。でも、その七つは、体にまではいっている。トークなどで、とっさの対応にこまったら、その七つから笑いをひねりだしてきた。自分の場合は、笑いのベースに古典がある。
「落語をやった芸人は、みんなそうですよ。大なり小なり、古典にたよっている。さんま君のふりにだって、それはあるしね」。
明石屋さんまのしゃべくりをも、古典はささえている。そう聞かされ、私はあらためて思い知った。基礎はあなどれないな、と。
さて、ジャズである。
率直に書くが、私はいわゆるアドリブができない。コード進行にのっとって、音をつむぎだす。ジャズの命ともいうべきあの展開が、にがてである。
たとえば、「サテン・ドール」をやるとしよう。キーをCに設定すれば、コードはDm7、G7、Em7、A7とすすんでいく。いわゆるツー・ファイブのくりかえしである。
そのアドリブを、私はあらかじめこしらえきってから、演奏にのぞんでいる。事前に、つくったものを丸暗記したうえで、ピアノにはむかっている。その場で聴けば、アドリブらしくひびく音のならびには、なっていよう。しかし、そこに即興の精神はない。
まあ、それでも、おぼえきっておれば、なんとかやりすごせる。しかし、時には用意したフレーズを、わすれてしまうこともある。あれ、つぎのEm7、A7、どうしたらよかったのかな。ああ、いかん、でてこない。これで頭がまっ白になり、指がとまってしまうことも、ままあった。
この問題を解決するてだてが、ないわけではない。Em7、A7でつかえる音を、指にたたきこむ。そうすれば、Em7、A7のおりに、そこから音をえらびだし、自由にあやつることができる。自信をもって、アドリブにはのぞめるだろう。曲ごとに、時間をかけて、アドリブ・フォームをあらかじめくみたてる必要も、なくなる。
そして、ジャズのミュージシャンは、みなそれができる。Em7、A7にかぎったことではない。ありとあらゆるコードで、それがこなせるように、彼らはふだんからきたえている。
ピアノの場合は、ハノンの練習をすればよい。楽譜店へいけば、その教材もおいてある。ジャズ用の『ジャズ・ハノン』も、売られているのである。
じつは、私もそれを買ってはいる。レオ・アルフレッシーの『ジャズ・ハノン』を、手元においてきた。のみならず、同じアルフレッシーの『ブギウギ・ハノン』と『ブルース・ハノン』も、書棚をかざっている。
これをマスターすれば、演奏でこまることは、とりあえずなくなるだろう。Em7、A7という展開がきても、Dm7、C7のところでも、だいじょうぶ。ハノンのパターンで、とりあえずはやりすごすことができる。
しかし、その練習は味気ない。曲をたのしみたい私などには、苦痛である。サッカーが好きなのに、ランニングばかりをさせられる。そのつらさと同じである。中年でピアノをはじめた私には、たえられない。
それに、マスターをしたとしても、耳のこえた人はだませないのだ。あいつのアドリブ、いつもアルフレッシーの型どおりだなと、ばれてしまう。明石屋さんまの話芸にひそむ古典でさえ、くろうと筋は聞きとってしまうのだ。
やるならば、クラシック教材のハノンだろう。しかし、こちらはアルフレッシー以上に、無味乾燥である。前途は暗い。