マイルス・デイビス『Walkin』
マイルス・デイビス『Walkin』

 マイルス・デイビスに『ウォーキン』(1954年)というアルバムがある。マイルスが、ハード・バップをうたいあげた一枚として、知られている。ドラッグからたちなおった、その記念盤として語られることも、ないではない。

 サイドメンのひとりに、トロンボーンのJ・J・ジョンソンが、加わっている。そのJ・Jが、ソロのところで「銀座カンカン娘」をふいているらしい。私は知人からそう聞かされ、ためしに聴いてみた。

 たしかに、それらしい節まわしはある。「あの娘かわいや、カンカン娘…」の、「あの娘かわい」ぐらいまでは、聴きとれる。

 そう言えば、J・Jは敗戦後の日本で、占領軍の一員として滞在していたと思う。今回、たしかめるゆとりはなかったのだが、私の記憶では、きていたはずだ。うーん、ジョー・ヘンダーソンあたりと、話がこんがらがっているのかな。

 そして、もしJ・Jが、20世紀なかごろの日本にいたのなら。その場合は、「銀座カンカン娘」あたりからのアドリブ転用も、ありえよう。

 戦後の日米文化交流史をいろどるエピソードとしても、うるわしい。亀井俊介先生や荒このみ先生などに、本のなかでとりあげてもらえれば、とも思う。

 しかし、このていどの類似なら、どうだろうか。ぐうぜん同じ展開になることも、ありえそうな気がする。引用されていると、そうはっきり言いきることは、むずかしいんじゃあないか。

 ざんねんだが、日米文化交流史の美しいエピソードは、おあずけということにしておこう。

 こういう話をすれば、ジャズ好きは、ほかの例もいろいろあげだすかもしれない。J・Jだけじゃないぞ。こんな例だってあるんだからというように。

 トランペットのリー・モーガンが、「月の砂漠」をふいている(『ザ・ランプローラー』 1965年)。

 デューク・エリントンの『極東組曲』(1966年)にも、耳をかたむけてほしい。そこにおさめられた「アドリブ・オン・ニッポン」も、日米交流史のひとこまになりうる。

 いや、なんといってもすごいのは、ホレス・シルバーだ。『トーキョー・ブルース』1962年を、知っているか。日本だらけになっているぞ。「トゥー・マッチ・サケ」、「サヨナラ・ブルース」、「ア!ソウ」…。

 ジャケットの写真だって、あなどれない。ホレスが、和服の日本娘をふたり、両脇へはべらせた構図になっている。このへんから、日米交流史へはいっていく本づくりも、ありうるんじゃあないか。

 私がひかれるのは、しかし、なんといってもデューク・ジョーダンだ。その『フライト・トゥ・ジャパン』(1975年)を、ここでは紹介しておきたい。

 「シンカンセン」や、「ラブホテル」という曲が、そこにはおさめられている。しかも、「ラブホテル」は、京都への滞在中に、曲の構想をえたらしい。京都で観光をしているあいだに、ふと見かけたラブホテルで、想いついたのだという。

 京都には、いろいろな観光名所がある。金閣寺、銀閣寺、清水寺、嵐山、大原、祇園…等々である。あげれば、キリがない。

 だが、それらは、デューク・ジョーダンの音楽心をうたなかった。京都で、唯一彼のミュージシャン魂をゆさぶったのは、あるラブホテルだったのである。

 いい話だなあ。京都市の観光課や観光協会あたりの人々にも、ぜひ聞かせたい。金閣、銀閣なんかがたばになってかかっても、一軒のラブホテルにたちうちできなかった。観光京都なんか、そのていどのねうちしかないんだぞ、と。

 ざんねんながら、1976年のデューク・ジョーダンは、アメリカでくらしていない。デンマークのコペンハーゲンに、すまいをうつしている。このアルバムを、だから日米交流史のエピソードとして書きとめるのは、無理である。

 しかし、京都がみくびられているらしいところは、京都でくらしている私の胸をうつ。

 自虐精神をくすぐってくれる。いささかちっぽけな話になるが、京都とコペンハーゲンの交流史をいろどる一挿話として、ひろく顕彰しておこう。

 余談だが、このアルバムには、「ストーン・ウォール・ブルース」も、おさめられている。その冒頭は、まちがいなく「鉄道唱歌」である。「汽笛一声新橋…」が、ジャズにかえられている。

 韓国では、同じ曲が「学生の歌」として、うたわれてきた。モンゴルでは、「女性解放の歌」になっている。「鉄道唱歌」の、そんな国際性をしらべている唱歌研究者に、私はこうつげたい。デューク・ジョーダンも、わすれずに、と。