日本中が固唾をのんだ「9・17」。小泉氏は2006年に首相退任、金総書記は11年に死去 (c)朝日新聞社(代表写真)
日本中が固唾をのんだ「9・17」。小泉氏は2006年に首相退任、金総書記は11年に死去 (c)朝日新聞社(代表写真)
この記事の写真をすべて見る

 原発に関する発言で注目されている小泉元首相だが、首相時代には拉致問題で大きな成果をあげている。「里帰り」の予定だった拉致被害者が日本に帰国できたのは、小泉元首相の「無鉄砲さ」があったからだ。

 あの日の記憶は今も生々しい。2002年8月30日、記者は北朝鮮にいた。通りかかった集落の大きなスピーカー(第3放送。テレビやラジオで伝えない命令などが流される)から驚くべき内容が聞こえてきたのだ。

「日本の総理・小泉が平壌(ピョンヤ ン)で金正日(キムジョンイル)将軍様と会う」

 小泉純一郎首相(当時)は9月17日、平壌で金正日総書記(同)と会談。北は拉致被害者の安否について「5人生存、8人死亡」と回答、日本中が大騒ぎになった。5人は10月に日本に帰国した。

 会談にはいまも謎が多いが当時の首相秘書官・飯島勲氏(現・内閣官房参与)は近著で「訪朝実現の本当のキーマンはある財界人だった」と書いている。

 周辺によると、北朝鮮とパイプを持つその財界人に小泉官邸が「金正日と首脳会談をしたい。北に手紙を書いてほしい」と頼んだのはその年の春。年明けの田中真紀子外相更迭で内閣支持率が急降下、政権維持のため「誰もが驚く秘策」として発案されたのが初の日朝首脳会談だった。

 財界人は手紙を北に送り、返事が来た。「条件次第で応じる用意がある。交渉担当者を出してほしい」。秘密接触が始まる。だが拉致被害者については北から明確な反応がなかったようだ。官邸はまたも財界人に手紙を依頼する。北の返事は「ご心配なく」。最後まで100%の保証のないまま首相は平壌に飛んだ。

 金総書記が会談を決意したのは、日本の莫大な経済支援の見込みと、当時のブッシュ米大統領の「悪の枢軸」発言に対する恐怖が大きい。しかも彼は拉致問題での日本世論を甘く見ていた。

 外交関係者は語る。

「拉致被害者5人の帰国は元々『里帰り』だった。だが小泉氏は5人を戻さない決断を下す。彼に北朝鮮問題への深い関心があったか、北の核開発への米国の懸念を理解していたかは疑わしい。だが世論への敏感さ、無鉄砲なまでの胆力、決断力があった」

AERA 2014年1月13日号秋元康特別編集長号より抜粋