東日本大震災のボランティアをきっかけに、被災地に移住する人たちがいる。そこは東京よりも不便ではあるが、それまでとはまったく違った喜びを見出すことができるという。
宮城県石巻市の牡鹿(おしか)半島の西側、石巻湾に面した大原浜地区。2階まで津波をかぶりながら流されなかった築70年余の古民家の前で、堀越千世(ちせ)さん(37)は、笑顔を見せる。
「ここを、多くの人が集える場所にしたい」
この古民家を、大原浜の復興のために再生させる「古民家再生IBUKIプロジェクト」の調整役を担う。
埼玉県の出身で、東京で育った。都内のマンションで一人暮らしをしながら、医療関係の会社で事務仕事をしていた。アフターファイブは、ネイルサロンでおしゃれをしたり、友だちと飲みに行ったりした。有休をとって旅行にもよく行った。
「こつこつお金を貯めて、自分が生活していければそれでいいかな、と思っていました」
2011年3月、東日本大震災が起きた。2週間近く経った頃、先にボランティアで被災地に入っていた友人から、悲鳴のメールが来た。
〈人手が足りない。一緒に行こう〉
それまで福祉やボランティアとはまったく無縁だった。行っても足手まといになるだけでは…。一晩考え、4月の最初の週末、石巻市街地に入った。泥かきを手伝った家で、お婆ちゃんが「本当にありがとう」と涙を流した。私でも役に立てるんだ──。週末を利用して石巻にボランティアに行く生活が始まった。
震災から2カ月近く経ち、支援が遅れていた大原浜に活動の拠点を移した。津波をかぶった家の泥かきや家具の運び出し、がれきの撤去…。走り回るうち、白かった肌は小麦色に焼けた。そしてその年の夏。「古民家再生IBUKIプロジェクト」構想が持ち上がった。「私、やりたい」手を挙げ、プロジェクトのメンバーになった。秋頃、所属する一般社団法人「OPEN JAPAN」の代表から「事務局としてこっちに住めば」と勧められ、移住を決意した。
「一番大きな理由は『人』です。本当に、温かく迎え入れてくれるんです」
東京は人間関係が希薄。だけどここは違った。皆が顔見知りで「ちせちゃん」と呼んでくれ、週末にボランティアに行くと地区のお年寄りが喜んでくれた。「おらの娘が戻ってきたぞ~」
12年3月に会社を辞め、翌4月から大原浜の住民になった。宮城県復興支援課事業の、牡鹿地区復興応援隊としての活動も開始した。今は古い一軒家を借りて暮らす。家にはゴキブリも出て、トイレは汲み取り式。収入は東京で働いていた時の約半分。仕事は寄付金の受け付け・入力、大工の手配、行政書士や土地家屋調査士との打ち合わせ…。知識も経験もなく、とまどうことばかり。休みもない。それでも、ここは紛れもなく「第二のふるさと」になった。
「東京の生活に戻りたいとは思わないです。化粧もしなくなって、女子力の著しい低下は否めないですけれど(笑)」
※AERA 2013年10月21日号