作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。北原氏は広河隆一氏の性暴力問題について筆を執る。
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広河隆一氏の性暴力・セクハラ問題を検証する報告書を読んだ。2018年12月に週刊誌で第一報が出されてから約1年。長期にわたる調査は、性暴力被害を放置し続けたデイズジャパン社の構造的な問題(長時間労働や、広河氏への批判を許さない体制)を丁寧に追及する内容だった。
性暴力加害者の「言い分」は、驚くほど似ている。広河氏は報告書の中でこう述べる。
「セクハラという言葉で関係が語られたその瞬間に、それまでの男女の心の中に育ったはずの温かなものは、一切なかったように女たちは語り始める。あの時期はそれほどひどいものだったのか、あの時語り合ったことは、そんなに色あせたものだったのか」
彼からすれば甘い性交だったのに、あとになって女たちが「あれは性暴力」と話を変えてきたことになっている。そんなザラザラした人間関係、オレは悲しい!と言っているようだ。気分はまるで#MeToo時代の犠牲者である。
性暴力加害者が被害者意識を強めるのは、よくあることだ。元TBS社員の山口敬之氏も、自分こそが被害者だ、と記者会見で主張していたが、広河氏も山口氏も、「僕が被害者」と感じ、自らを憐憫(れんびん)している。
多くの性暴力は「なごやかな時間」を装って行われる。なだめたり、口で口をふさいだり、秘密だよと耳元でささやいたり、にやついたり。被害者が硬直し、怯えていても、加害者の目には真実が見えない。そもそも真摯(しんし)に同意を取るつもりがないのだから、彼女が全身で発する拒絶に気がつく力もない。これは女性が「弱い」から声をあげられないのではない。あらゆる状況を判断しながら、命や安全が脅かされない最善の状態が唯一「そこに留まるしかない」こともあるのだ。圧倒的に不利な状況に置かれているのに、自ら「選択」しているように思わされる、そのことも含めて性暴力は悲惨だ。