作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。今回は厚労省のPRポスター「人生会議」について。
* * *
「これ、どう思う?」と差し出されたスマホの「人生会議」のポスターを見て、私の身体は自動的に大きく一息のみ、息を吐くと同時に涙がこぼれた。反射神経とは、こういうことか。
鼻から酸素を注入され、青ざめ、必死な形相ゆえに「おもろ」を表現している吉本の芸人が、心肺停止直前に父親の「すべった話」にいらつく様が、「おもろいやろ」という調子で記されている。厚生労働省が2年かけてつくった。
「人生会議」とは、どのように死を迎えるかを周囲と話そう、という厚労省による啓発事業で、吉本興業がPRを一任された。ポスターは病院等で貼り出される予定だったが、患者会や遺族から無神経な表現に抗議が殺到している。当然だ。
数日前、私は親友を失った。乳がんによって否応(いやおう)なく変わらざるを得なかった彼女の人生の最期、もしあのポスターを見たらどのように感じただろう。アーティストであり、優れた観察者だった彼女であれば、私のように泣いたりせず、「このようなポスターがどのような構造のもとに可能になったのか」と考えたかもしれない。
そう遠くはない死について、私たちはときどき語りあった。亡くなる1週間前、「いま、どんな気分?」と聞くと「発射台にいるみたい。でもまだ発射できないで、部品を待っている」と、笑うような目で話していた。誰にも未来など見えない。がんで死ぬかもしれないし、地震で死ぬかもしれないし。最期まで彼女は自分の死のあり方を断定しなかった。死はみな平等に不本意で不確定なのだ。
「人生会議」という軽々しいコピーが放つメッセージはただ「段取りしろ」である。家で過ごしたいか、延命措置は取るか、お金をいくらかけるか。たいていの場合、そのような段取りは予測不可能に変わらざるを得なくなる。管につながれながらも死を直前にした人々は発射台の緊張に固唾(かたず)をのみながら生きている。税金を使い、周到な“段取り”の上、吉本のお笑いに丸投げして、出てきた「おもしろいでしょ」という緩慢なお笑いと、国が求める「段取り」に、笑っておとなしく従うと思われていることが、人間として屈辱なのだと、私は泣きながら思う。