人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の本誌新連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は「美の永続性について」。
* * *
瞼の裏から離れない映像がある。かの首里城の焼け落ちる瞬間、柱や屋根の輪郭だけを残して崩れ落ちる。
炎の中に影絵のように浮かび上がるその美しさ! 誤解を恐れずに言うなら何度見ても美しく胸かきむしられる。
テレビで同じ場面を見るうちに、私の目の前で起きたことのような錯覚に陥る。
美しいものは焼け落ちる時も美しいのだ。
かつてバラ専門の店で見事な花を買い求め、枯れた後ドライフラワーにしたら、見たこともない見事なドライフラワーになった。
その時感じた。美しいものは形を変えても美しいのだと。
首里城の火災はかえすがえすも残念だが、今となってはその残像を人それぞれの方法で心の中に持ち続けるしかない。
私は幸か不幸か、沖縄に行った折に遠くからその存在を確認したが、そばに寄って見ていない。
だから私の中の首里城は、あの黒い影になって崩れ落ちる瞬間の首里城である。それを抱えて想像をふくらませていくしかない。
沖縄の人々の願いを一身に集めて再建された首里城は、実は何回もの焼失の憂き目に遭っている。太平洋戦争末期の記憶もあり、新装なった首里城に描く夢がいかに大きかったか。今回の焼失を語る沖縄の人々の言葉には響くものがあった。
いつの日か再建するにあたって、経費も人手もほんとうにまかなえるのか。ただ救いになるのはそのために多くの人々が寄附を惜しまないことだ。
それはノートルダム大聖堂が焼失した時のフランス人をはじめ、全世界の人々の思いと同じである。
人々の心の中に住んでいるのは象徴となる文化なのだ。文化を大事にすることこそほんとうの豊かさであり、数字に表れる経済効率とは違うことを心したい。
戦後日本は経済効率のみを追い続け、政治家も文化は票にならないと、選挙時に語る人は少ない。そのことへの警告として首里城の焼失を考えてみたい。