人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の本誌新連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は「心が動くという奇跡」。
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ときめきは前ぶれもなく冬薔薇(ふゆそうび)
五年前に作った拙句である。もう二度と起こらないだろうと思っていたある感情が頭をもたげてきたことに気付いて、とまどっていた。
三・一一の起きた年から右足首、次の年に左足首、そのあくる年に左手首と三年連続で「首」を骨折した後だった。一年ごとのあまりの間の良さに落ち込むどころか、笑ってしまった。
足首は単純でギブスが外れるとすぐ元にもどったが、手首は神経が細かく張りめぐらされているので、一年近くかかった。手術をすすめられたのに、忙しいことを理由にリハビリだけで治すことにしたからだ。
その間に思いがけぬ出会いがあった。治療中に「おや?」ということが何度かあった。私が思っていることをさり気なく言いあてられる。しかも心の奥にしまっておいたはずのことを。何度かそんなはずはないと首を振る。
なぜわかるのだろう。結論として納得した一つは「触れる」ということだった。痛んだ手首に触れることで通じるものがあったのだ。
今はクリニックでも大病院でも、医者は患者に触れることはほとんどない。脈も測らず、手も握らず、まして体に触れることはない。ひたすらその目は机の上のデータ画面に釘付けである。
検査結果の数字を見ながら、患者の顔を見ることもなく、さまざまな宣告がなされる。
「先生! 私の目を見てよ」と何度言いたくなったことか。
「リハビリだけで完全に元通りになるかどうかは五分五分ですね」
教えられた通りに自分で出来る宿題をこなすことも大事だが、手首を他人の手に任せている時の心地良さ。触れあいの中から生まれる感情。残念ながら健康保険での治療は20分以内ときめられていて、あっという間に刻が過ぎる。
「整形外科ぐらいさまざまな診断がされる所はありません。私のもその一つだと思って聞いて下さい」