ゴールデンウィークも後半に突入した5月5日、こどもの日。日本中が注目した一大関心事といえば、やっぱり長嶋茂雄と松井秀喜のW国民栄誉賞授与式&引退セレモニーだったのではないだろうか。ミスターとゴジラ。栄光の読売巨人軍の四番打者として、そして昭和と平成のスーパースターとして、ぼくら世代、あるいはぼくらの親世代の少年時代から今に至るまでに強烈なインパクトを与えてきたふたり。ゆえに、“戦いを終えた”この日の師弟の晴れ晴れとした再会と交歓の一幕には、誰しもの胸に万感なる想いが込み上げたことだろう、とテレビ放送を観ながら思っていた。
…のだが。その夜ふと顔を出した飲み会の席で、友人の会社に勤める若衆が泰然と吼える。「どっちもよく知らないっス」。この21歳の2年目社員。小・中・高とみっちり野球部で鍛えられ、大学進学に際しても関西の某名門校から野球推薦入学のお声がかかっていたというほどの“球道者”にも関わらず、ミスターもゴジラも「名前程度」という体たらく。しかも大の巨人ファンだというのにだ。「お前、マジか!?」とぼくらR40は慄くばかり。このふたりを知らずして巨人軍の何を語れるのか、と。さらに訊けば、ONはおろか、原も中畑も指導者としての顔しか知らない。槙原や元木に至っては「野球好きのタレントかと思ってた」とぶっちゃける始末…。
でもまぁ、よっぽど野球史のお勉強に精を出している人じゃないかぎり、ハタチそこそこの若いコが、長嶋の天覧試合ホームランや松井の5打席連続敬遠について言及することなんかありえないだろうなと、シンプルな世代間ギャップとしてある意味、彼の“無感動さ”に納得させられた。そりゃ、R80世代から沢村栄治やスタルヒンの武勇伝を懇々と語られてもぼくらには大抵ピンとこないわけで。
いずれにせよ、牧歌に彩られた少年~青春時代のサウダージというものは、当然ながらいかに百人百様で、またのちに壮年を迎える上でそれがいかに重要なウエイトを占めるインパクト、執拗な刷り込みとなり得ているかということを改めて痛感させられた、そんな2013年のこどもの日であった。
という、いくらか感傷的な世代論を“前フリ”に、それが功を奏すのか否か、ここからやや強引ではあるけど、今回ご紹介する、ものんくる(mononkul)というユニットの話に移させていただく。とはいえ、あまりにもトピックがありすぎて、どこから敷延していこうかなという感じなのだが…まずは、簡単にその人となりを。
彼らは、女性ヴォーカルの吉田沙良とベースの角田隆太を中心として、そこに流動的なサポート・メンバーを加え活動しているポップス・ユニット。双方、大学を出て間もない22歳と25歳。しかも本ユニットは結成が2011年の1月ということで、いわゆるホヤホヤでありピチピチのひよこ組。ただ昨年1月に早くもモーション・ブルー・ヨコハマでワンマン・ライヴを行ない大盛況を収めたという結構な殊勲もたずさえる、まずもってドライチのスーパー・ルーキーと呼ぶにふさわしい逸材。その音楽表現自体の質の高さにもビックリして余りあるほどの驚異的なものがある。
ジャズをベースに、ビッグバンド、ブラジルから、映画音楽、AOR、J-POP、童謡に至るまでの要素(これこそ一方的な決めつけなんだけど)を、身丈に合った解釈で無理なく掬い込みながら、すべてを、「こんな感じ」「あんな感じ」と“コソアドあそび的”にひっくるめて新しい世界を窺わせてくれる、彼らのそんな初々しくもフットワークの軽い、前途光明なパフォーマンスにハッとさせられる。また、一見手アカまみれと思われていた習作古典でさえも、切り込む角度によってはフレッシュな余地があるという、まさしくヒップホップのサンプリング・ソース引用論によく似た感触もチラホラ。
とはいえ、ものんくるの音楽を肴に、「初期の大貫妙子っぽいし、Sakanaのポコペンっぽいし、これなんかは完全にリベレーション・ミュージック・オーケストラだもんねぇ」とぐだぐだのクリシェでメートルを上げるのには、些かの違和感があるのも事実。そういう“さしずめ論”は、牧歌に彩られすぎて、アーカイヴの引き出しをコジ開けることに躍起するぼくらオジサンのある種勲章ではあるのだけれど、それでも先に登場した友人連れの21歳の若衆同様、「古いことはよく分かんないスけど、ジャイアンツってやっぱヤバいっスよねぇ」という賢しげさも忌憚もない物言いの中にこそ心地よくストレートな愛情表現が宿っている、という見方をするのがどう考えてもシラフ且つ真っ当であるのかもしれないと。別にティン・パン・アレイやチャーリー・ヘイデン&カーラ・ブレイの先達偉業を大上段からお仕着せしなくとも、道はいくらでも大きく開けているというわけだ。
ものんくるのことを初めて知ったのは、このたびリリースされる彼らのデビュー・アルバム『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』のプロデューサー(サックスで1曲に参加)でもある、あの菊地成孔氏がパーソナリティを務めるTBSラジオ番組「菊地成孔の粋な夜電波」に昨年本人たちが出演した回でのこと。百戦錬磨の氏による“神推し”もあったが、とにかくそこでオンエア・プレイされた「優しさを重ねること」という楽曲に、溜飲を下げたというか、瞬く間にホの字となった。
ものんくるのふたりは、比較要素としてしばし挙げられる前述のリベレーション・ミュージック・オーケストラやギル・エヴァンス、ブラジル・ミナス派、あるいはひと昔ふた昔前の和洋シティ・ポップを特別熱心に聴き込んでいるわけではないと思う。もっと言えば、彼らの世代がそれらを夢中になって貪ったところで、「優しさを重ねること」や「春を夢見る」、「穏やかな日曜日へ」のようなリアリティのある名曲が生まれることはないだろう。彼らなりのインスピレーションやサウダージが、たまたまオジサンたちの大好きな古典の薫りを髣髴とさせただけで、そこへの習作としてのワンタッチこそあるものの、彼らのような若き才は古典(過去)にばかり傅き自らをがんじがらめにするような愚行にはまず及ばない。そう断言できる気がする。そういう意味でも、ものんくるの『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』に収められた10曲は、どれも強くタフな意志をもつ傑出したものばかり。
2013年5月5日。ミスターとゴジラの季節がひとつのピリオドを迎えると告げられたこの日、一方で新しいシーズンの到来とばかりに、オジサンたちを(も)振り向かせ狼狽させ熱狂させる“恐るべき子供”たちにその後の未来は託された。いや、どうりで青葉が目にしみるわけだ。[次回5/22(水)更新予定]