国民から大きな支持を得ている天皇、皇后両陛下。ジャーナリストの田原総一朗氏は、両陛下のおそばにいた“後見人”が果たした役割を伝える。
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武見敬三参議院議員から、非常に興味深く、とても重要な話を聞いた。
戦後、日本国憲法が作られたのち、昭和天皇が吉田茂首相に「新憲法下での皇室と国民との関係をどのように考えるべきか」と問われたそうだ。
明治憲法では、主権は天皇にあり、国民はその臣民であった。国民は万世一系の天皇の統治下にあったのだ。
ところが、新憲法では主権は国民にあり、天皇は国民の総意に基づく象徴となった。つまり、天皇と国民の関係が大きく変わったわけである。
どのように変わり、新しい関係をどう考えればよいのか、と昭和天皇は問われたのであろう。
さらに、新憲法ではいわばトップはすべて選挙で選ばれることになっているが、皇室は世襲で、これは憲法の趣旨と矛盾していやしないか、とも問われたようだ。
吉田首相はそれに対して答えることができなかった。そこで、吉田首相の主治医であり、信頼していた武見太郎氏(敬三氏の父)に「本来であれば腹切りものだけども、どうすればよいだろう」と苦悩を吐露したのだという。
そこで武見氏は考えた末に、慶応義塾を創設した福沢諭吉に思い当たった。福沢が近代国家における天皇のあり方について論じた『帝室論』に感銘を受けていたからである。そのことを吉田首相に話し、慶応大学の塾長を務めた小泉信三氏に相談してはどうか、と勧めた。
吉田首相は『帝室論』を読み、小泉氏を文部大臣に起用したいと言いだした。武見氏は小泉宅を訪ねてそのことを伝えると、小泉氏は、文相は断ったが、皇室のためには全面的に役に立ちたい、と答えた。
そして、小泉氏は吉田首相と話すことになり、「何よりも皇室の民主化を図るべきだ」と強く主張し、「そのためには開かれた皇室にすべき」と強調した。吉田首相は小泉氏の主張に同意して、「東宮御教育常時参与」、つまり皇太子(現天皇)の教育全般に責任を持つ役職に就けた。