クールジャパンの発信地となり多くの若者や外国人が訪れる東京・秋葉原
クールジャパンの発信地となり多くの若者や外国人が訪れる東京・秋葉原
バーチャルユーチューバーの「キズナアイ」は秋葉原の観光大使として外国人観光客の誘致に活躍している
バーチャルユーチューバーの「キズナアイ」は秋葉原の観光大使として外国人観光客の誘致に活躍している
宮崎勤・元死刑囚。2008年に死刑が執行された (c)朝日新聞社
宮崎勤・元死刑囚。2008年に死刑が執行された (c)朝日新聞社
「おたく」という言葉の考案者とされる中森明夫さん (c)朝日新聞社
「おたく」という言葉の考案者とされる中森明夫さん (c)朝日新聞社

 日本を代表する文化として認められた漫画やアニメ。外国人観光客にも人気で、「クールジャパン」を支える。平成という時代は、おたくカルチャーが進化した30年間だったが、スタートは暗いものだった。

【画像】新たな文化をけん引!バーチャルユーチューバーの「キズナアイ」

「おたく」という言葉が一般に広く知られることになったのが、平成元年(1989年)に宮崎勤・元死刑囚が逮捕された「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」。88~89年に4人の幼女が犠牲になった。

 83年におたくという言葉を初めて使い、サブカルチャーに詳しい作家の中森明夫さんは、こう振り返る。

「マンガ好きの人たちや深夜放送などで知られる言葉で、それほど社会的には知られていませんでした。それが宮崎事件によってネガティブなイメージとともに一気に広がっていきました」

 宮崎元死刑囚の部屋は、天井までビデオテープが積み上げられ、床には漫画や雑誌が散乱していた。

「マンガ雑誌やアニメのビデオテープなどが積まれた部屋がテレビで映された。このような青年がなぜ生まれたのかという疑問とともに、『おたく』という言葉が“発見”されたんです。平成元年の夏の時点では、雑誌の図書館である大宅壮一文庫にも、『おたく』という項目はありませんでした」(同)

「遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です」

 宮崎元死刑囚は、今田勇子名義でこうした犯行声明を新聞社に送っていた。報道は過熱し、世間が注目するなか初公判は90年3月に始まった。罪状認否では「さめない夢を見ていて、その夢の中でやったことのように思う」と述べた。

「おたく人種なるものは、夢と現実、虚構と現実の区別がつかない不気味な存在だとされました。この事件は、ゲームやホラービデオ、青年向け漫画などに様々な規制がかけられるきっかけにもなりました。僕自身がおたくカルチャーの代表のように、バッシングされたこともあります」(同)

 時代は流れ、2000年代になると、おたくをとりまく環境は激変する。

「インターネットを通じておたくカルチャーが広がった。『OTAKU』としても世界中に広まり、僕自身もフランスやイギリスの放送局から取材を受けるようになりました。もうひとつが秋葉原という街の変化です。もともと電気街だったのが、ゼロ年代からおたくカルチャーの街に変貌(へんぼう)していく。メイド喫茶ができて、コスプレ店員も当たり前になっていく。04年にはネット掲示板『2ちゃんねる』の書き込みから誕生した恋愛小説『電車男』がベストセラーになり、ドラマや映画にもなった。AKB48劇場は05年にできています。秋葉原はクールジャパンの発信地になり、おたくという言葉もポジティブなイメージとして生まれ変わったんです」

 いまおたく文化を牽引(けんいん)するのは、宮崎事件のころに生まれていなかった世代だ。暗い過去は引きずらず、明るくアニメや漫画を楽しむ。3DCGの架空キャラクター「バーチャルユーチューバー」など、新たな人気分野も生まれている。訪日促進キャンペーンでも活躍する、「キズナアイ」と呼ばれるキャラクターはその代表格だ。

「外国人が日本のおたくカルチャーに憧れてやってくる時代です。いまや国が推し進めていくような文化になりました。言葉のイメージもずいぶん変わったものだと、改めて感じます」

 平成後の時代も、おたく文化はますます元気になりそうだ。

(本誌・太田サトル)

※週刊朝日オンライン限定記事