
「聖母」の正体をめぐる長編サスペンス『鏡の背面』が刊行された。1990年にデビューして以来、山本周五郎賞や直木三十五賞を受賞するなど、数々の名作を生み続ける篠田節子さんの新著だ。
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「楽しいです。それはもう」
インタビューを終える直前、執筆中の心境を聞いたところ、笑顔の即答だった。
篠田さんは、綿密に取材を重ねるタイプの作家だ。母親の介護もあって外出に制約はあったが、相続に関する部分は銀行の本店に足を運んで疑問点をつぶした。半面、これは訪れたに違いないと思いながら読んだフィリピンのスラムについては、「本来なら行きたかった」と残念そうに答えた。巻末に挙げた文献と海外の報道番組をもとに描いたという。
本書は、DV被害などにあった女性たちの駆け込み寺になっていた施設が火災にあったのを発端に、施設内で「聖母」のように慕われてきた女性の過去があぶりだされていく長編小説だ。火災現場から発見された「聖母」の遺体に「すりかわり」の疑惑が浮上し、女性ライターの追跡によって不思議な展開を見せていく。
執筆にあたり、蜜蜂の絶滅現象を探る科学読み物に刺激を受けた。いくつもの仮説を検証していく過程に好奇心をそそられ、小説に使えないかと思ったという。
本書には、篠田さんが得意とするオカルト現象も出てくる。別人であるにもかかわらず、周囲が「本人」と思い込んだのは何故なのか。ありえない霊的な乗り移り説に「そういう話だったのか」と信じ込まされそうにもなる。
根底にあるテーマは「自我形成」だ。「“善人”“悪人”と、人は簡単に分類できないもの。状況によって、私が“わたし”であると思う自我すら変容しかねない。人間の本質とは何なのでしょうか」
人とは、こんなにも不可解なものなのか。そうした余韻を残したかったという。
「人格のゆらぎ」に惹きつけられる中、脇役ながら印象深い人物が登場する。物語を牽引する女性ライターを陰ながら支援する男性だ。ルポライターを引退してカルチャーセンターの講師をしながら認知症の妻の介護を続ける男性の第一印象は、口うるさい「いやな男」。しかし、読むうちに親近感がわいてくる。