「イデオロギーよりアイデンティティー」

 翁長はそんなスローガンで保革共闘を実現し、「腹八分目、六分目」と党派的主張の自制を呼びかけた。

 基地問題を巡る演説では、沖縄の戦後史を振り返る表現を多用した。

 1950年代、保革が共闘して米軍と対峙(たいじ)した島ぐるみ闘争を例に団結を呼びかけ、安倍政権の強硬な姿勢を「(米軍統治時代の強権的統治責任者)キャラウェイ(高等弁務官)を思い起こさせる」と60年代の米軍人にたとえて批判した。元知事の稲嶺はかつて、自分より17歳年下の翁長を「歴史感覚の人だった」と評したことがある。翁長は自らの誕生前、あるいは幼少期の歴史にも言及し、不条理の連続だった米国や本土との関係改善を訴えた。

 一方で玉城は、翁長ほど深い歴史への造詣(ぞうけい)や重厚な表現力はない半面、米兵の父を持ち、貧しい母子家庭で育った彼自身の生い立ちが、沖縄の戦後を物語る立場にいる。もちろん政治家としての資質も認めてのことだろうが、翁長は何よりも「歴史の子」として玉城の存在そのものに可能性を感じたのだった。

「私には産みの母と育ての母がいます。育ての母親は『人の容姿は一枚の皮の違いだけ』『手の指の長さはそれぞれ違っていて、それが個性なんだ』と大切なことを教えてくれました」

 翁長の意図をくみ、ここに来て玉城は自身の生い立ちを積極的に語っている。

「過去の衆院選の演説では、ほとんど語らずにきたことです」と、玉城陣営のスタッフは言う。

 告示日直前の集会では、エレキギターを持ち、玄人はだしのロック演奏を披露して、旧来の支持者を驚かせた。

 これもまた、米軍基地の町・旧コザ市(現沖縄市)で青少年期を送った環境ゆえのことだ。この町では70年代に「紫」や「コンディショングリーン」など、米兵相手のライブハウスから傑出したロックバンドが次々と生まれた。若き日の玉城は、人気ボーカリスト喜屋武マリーの所属事務所で働いた人脈から、ラジオパーソナリティーとなってゆくのだが、彼自身ミュージシャンを目指した時期もあったという。

 米兵を主たる相手とする悲喜こもごもの歓楽街で夢を追った日々。ちなみに米兵の横暴に激高したコザの群衆が、米軍ナンバーの車約80台を焼き払った「コザ暴動」の“焼け跡”も、少年時代の玉城は目にしている。

 ただ、こうしたアイデンティティーのアピールは、果たして翁長同様に県民の共感を呼び得るのか。

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